レオス・カラックスが見出した、観客の感情との確かな接点 『アネット』で新たな境地へ

 映画界に存在する伝説的な存在の一人である、レオス・カラックス。フランスで10代より映画批評家として活躍し、20代から30代のはじめまでに、『ボーイ・ミーツ・ガール』(1983年)、『汚れた血』(1986年) 、『ポンヌフの恋人』(1991年)と、革命的ともいえる長編映画を撮り上げていった。その感覚的で強いパッションを感じさせる映像表現は、同時代の若者の心情を繊細かつ強烈に映し出し、いまもなおカリスマ的な支持を集めるまでに至っている。日本では、90年代を中心とする「ミニシアターブーム」との結びつきも強い。

 若くしてこれ以上ないキャリアを積み、新作が望まれながら、その後単独での長編作品は『ポーラX』(1999年)、『ホーリー・モーターズ』(2012年)の2作にとどまるという寡作ぶりも特徴的だ。それがまた、“厭世的な天才”という、常人ならざるイメージに繋がっている部分もある。

 『アネット』は、そんなカラックス監督による9年ぶりの新作である。ここでは、そんな伝説的な監督が長い年月を経て到達した境地と、本作が描いたものが何だったのかを考えていきたい。

 フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック ゴダールがそうだったように、新時代の映画表現の旗手を担う作家として、なかば神格化され語られるようになったカラックス監督だが、それは彼にとって、手放しで幸福なことだったとは言い難いのではないか。

 その評価を決定的なものにした初期三部作の主題である“ボーイ・ミーツ・ガール(典型的な恋愛物語)”を、彼は10年をかけて若い勢いのままで、自分の物語として描き続けてきた。その衝動が奇跡的なまでに、時代との幸福な“相思相愛”関係を生み出したことで、次作以降に大きな期待がかけられることとなったのだ。そして、その期待に応えながら、同時に新しい主題へと移行するという難題にも向き合わなければならなくなる。なぜならカラックスにとって、自分自身の内面をさらけ出し、現在の気分を映し出すことが、作品づくりと不可分であるからだ。

 10代から天才映画監督として高い評価を得たグザヴィエ・ドランもまた、近い状態にあるといえる。カラックス作品同様、若い時代ゆえの“視野狭窄”的な世界観が、痛切でみずみずしい魅力を初期の作品に与えていたのだが、近年の『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』(2018年)では、30代になってもまだ自意識の問題に囚われ、狭い視野のままで周遊しているような印象を与えられる。監督としてのキャリアを積んでいるにもかかわらず、後から成功した同世代の映像作家の視点に比べると、その世界観は幼いものに感じられるところがある。

 一方、カラックス監督は『ポーラX』において、大人の作家への脱皮を試みている。だが、そこには初期3部作のような分かりやすい魅力や、確かな手応えがない。依然として知的で突飛でありセンスを感じる作風ながら、その表現の行きつく先は定まらず曖昧な印象を与えられるのである。

 それはやはり、作品に自身を投影していたカラックス監督自身が、それまでに保留していた要素と向き合わなければならなくなってきたことを示しているように思える。その姿勢は、映画作家としての彼の誠実さであり、人間としての健全な成長だともいえるが、そのような進歩が観客や批評家の評価にそのまま繋がるかというと、また別問題である。

 作品の評価が以前ほど芳しくなかったことに、カラックス監督は少なからず傷ついたはずである。だがそのようなプレッシャーを彼が感じることとなったのは、そもそも神格化されたり、これまで以上の期待が寄せられていた状況があったからだともいえる。周囲と自身とが相互にかたち作ったイメージを背負いながら、「映画」への献身ゆえに、ある種のナイーブな面を持ったままで作家的な進化を遂げてしまった彼は、必然的に困難な状況に追いつめられる他なかったのかもしれない。

 本作『アネット』は、その意味でいうと、かなりの部分でプレッシャーから解き放たれる作品のように、一見思える。なぜならこの作品は、ポップバンド「スパークス」による、ストーリー仕立てのアルバムを基にした、彼らの持ち込み企画だからである。ストーリーは、日本の『四谷怪談』や、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』『告げ口心臓』のような怪奇譚や古典的なサスペンス映画に近い。ミュージカル、英語劇は初めてとはいえ、カラックスはこれまでの経験を活かしながら、職業監督としてそれを映像化する手腕を見せればよいだけのはずである。しかし彼の「映画」への献身は、作品をそれだけのものにとどめようとするはずもなかった。

 アダム・ドライバーが演じるのは、毒舌のスタンダップコメディアン、ヘンリー・マクヘンリーだ。彼は人気絶頂のオペラ歌手アン(マリオン・コティヤール)と結婚し、郊外にある彼女の豪邸で順風満帆な日々を送っている。「We Love Each Other So Much(お互いにとても愛している)」と、アンと歌いながら仲睦まじく歩くヘンリーの姿は、舞台上で傍若無人に振る舞う彼と同じ人物とは思えない。

 このシークエンスでは、ヘンリーとアンが2人乗りでバイクにまたがりながら、歌いつつ真っ暗な闇を切り裂いていく光景も映し出される。そのパワフルな映像は、カラックスの過去作で愛されている、主人公を捉えた横移動の撮影を想起させ、心踊らせるものがある。だが、幸せなはずの毎日がヘンリーの心のバランスを、かえって危ういものにしていくように、そのシーンは、カラックスと「映画」との、過去の“蜜月”の時期の象徴にも思えてくるのである。

 ヘンリーの舞台上でのパフォーマンスは過激さを増し、観客を戸惑わせ不快感を与えるようになっていく。本作のクレジットでは“感謝”として、毒舌や危険なネタで知られるコメディアンのビル・バー、そして2022年の第94回アカデミー賞でウィル・スミスに平手打ちをされたことで一躍世界から注視されることとなったクリス・ロックの名前が確認できる。どうやら、彼らがアダム・ドライバーの舞台上の演技のインスピレーションとなったようである。

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