『ウエスト・サイド・ストーリー』が示したメッセージと、作品に落とされたネガティブな影

『ウエスト・サイド・ストーリー』徹底考察

 1961年の映画版では、映画監督のロバート・ワイズと、オリジナル舞台の演出と振り付けをしていたジェローム・ロビンズが共同で監督を務め、基本的にそれぞれがドラマパート、ダンスパートに分かれて演出を分担していた。ロビンズがあまりに高い完成度を求めて撮り直しが続いたことで撮影が遅々として進まないことから、途中からロバート・ワイズが他のパートも引き受けることになったが、この事実からも分かるように、そこではドラマとダンスが、ある程度セパレートされていた状態にあったことが分かる。それだけに、ダンスシーンは踊る姿を楽しめるよう引いた構図で全体を捉える箇所が少なくない。

ウエスト・サイド・ストーリー

 一方、本作はダンスを見どころとしつつも、スピルバーグ監督作らしく、あくまで映画としての映像演出を駆使しながら、そこに極力自然なかたちでダンスを融合させていることが理解できるだろう。この違いは優劣で測るものではなく、観客の好みによって評価が左右される部分だが、舞台版をより映画独特の演出で解釈し直し、映像作品として洗練させた本作のアプローチがもたらす興奮は、ミュージカル舞台にあまり興味を持ってない観客の心をもつかむ力があるのではないか。

 本作における、ダイナミックで意外性のあるカメラワークには、カミンスキーやカメラオペレーターなど撮影スタッフたち以外に、スピルバーグ自身も深くかかわっている。本作では、ニューヨーク・シティ・バレエ団の振付師ジャスティン・ペックが、より現代的に解釈したダンス部分を担当しているが、その指導中、スピルバーグが自身のiPhoneを手に、ダンサーたちを捉える構図を検討するため、キャスターの付いた椅子に座って移動しながらテスト撮影を行っていたのだという。その椅子を押していたのもジャスティン・ペックだったというのは、微笑ましいエピソードだ。このような、振り付けと演出との密接なコラボレーションによって、ドラマチックに躍動する映像表現が可能となったのである。

 物語における、1961年版映画との大きな変更点は、トニーの働くドラッグストアの店主が、未亡人の女性バレンティーナに変更され、彼女の視点が強く反映されているという点だ。この役を演じているのは、ラテン系として成功を遂げた先駆的俳優であり、1961年版映画版においてアニータ役でアカデミー賞助演女優賞を受賞している、リタ・モレノだ。エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞(オスカー)、トニー賞と、アメリカの主要なエンターテインメント賞を制覇する「EGOT」を達成した彼女もまた、スピルバーグ同様に生きた伝説である。同タイトルへは、なんと60年ぶりの帰還だ。

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 1961年版映画版では、シャークスのリーダーでありアニータの恋人役を演じ、同じくアカデミー賞を受賞したジョージ・チャキリスが、人種的にはギリシャ系だったように、プエルトリコ系を演じた出演者の多くが人種的な当事者ではなかった。さらには、わざわざ肌を暗い色にメイクして人種の違いを強調して表現していたのだ。現在、モレノはプエルトリコ系には様々な肌の色の人々がいるとして、このやり方に反対だったと振り返っている。そのなかで、モレノは本物のプエルトリコ系として役を演じ、アカデミー賞を獲得するまでに至った。このことは、アメリカの多くのプエルトリコ系市民に希望を与えることとなったのだ。

 モレノは、曲目「アメリカ」で、新天地アメリカでの未来を夢見る歌詞を歌い、祖国にネガティブな発言をしなければならない役割にあった。その内容があまりにも偏見にまみれていて同胞を侮辱しているとして、彼女は一時役を降りる寸前までいったのだという。モレノのそんな抗議を経て、スタジオはついにソンドハイムの書いたオリジナルの歌詞を変える決断をしたのだという。これが、プエルトリコやプエルトリコ系の人々の名誉を守ることになったのはもちろんだが、それにくわえ、差別的な要素がボイコットの理由となることが増えている、現代の視点から見ると、じつは彼女が映画自体を救うことになったファインプレーを成し遂げていたともいえるだろう。

 それだけでなく、モレノは60年後の本作を監督するスピルバーグに対しても、劇中のスペイン語の不備について指摘しているのだという。同じ性質を持った当事者がその役を演じるということは、政治的な正しさや雇用機会の問題だけにはとどまらず、作品の持つ偏見や不自然さに、いち早く気づくことができるという利点もあるのである。

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 モレノがバレンティーナ役で出演した意義が最も表れているのが、自分がかつて演じたアニータ(アリアナ・デボーズ)が、ジェッツの面々によってレイプされそうになり、怒りを爆発させる場面である。リタ・モレノは、1961年映画版の、やはりジェッツに襲われるシーンを撮影したときに、かつて自分のエージェントにレイプされたときの記憶が蘇り、泣き出してしまったのだという。本作では、そんなモレノが演じる女性や、ジェッツの恋人の女性たち、そして性的少数者であるジェッツのメンバーが、アニータを助けようとする描写が印象的に配置されている。人種間の対立が存在してなお、その垣根を乗り越えて助け合おうとする姿を描くことによって、性別によって差別を受ける者同士の連帯的な関係が表現されているのである。

 劇中におけるジェッツの面々には、生まれた環境や社会からの偏見を受ける存在だという点において、たしかに同情できる側面があった。しかし、女性や他民族を人間とみなさず、力にまかせて一方的な暴力を振るった時点で、彼らは軽蔑すべき加害者でしかなくなってしまう。貧しさや歴史的背景から抑圧を受けてきた社会的弱者であっても、そのはけ口を、より弱い存在に向けてしまえば、彼ら自身を抑圧してきた者と同じ存在になってしまうはずである。

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