吉沢亮×北村匠海の兄弟の姿に魅せられる『マーキュリー・ファー』 狂乱の世界に響く愛

 吉沢亮と北村匠海が出演する舞台『マーキュリー・ファー』が、世田谷パブリックシアターにて上演された。本作は、イギリスの劇作家フィリップ・リドリーが2005年に発表したもの。日本では2015年に白井晃の演出によりシアタートラムで初演され、今回は世田谷パブリックシアターへと劇場を移しての再演となった。白井が再び演出を務め、共演に加治将樹、宮崎秋人、小日向星一、山崎光、水橋研二、大空ゆうひらを迎え、荒廃し混沌とした世界を背景に、吉沢と北村が扮する兄弟を中心とした“狂乱の一日”が舞台上に展開していくものである。

 物語の舞台は、どこかのボロ部屋。イスやテーブルが無造作に置かれ、奥には木の板で乱雑に覆われた扉と思しきものがある。そこへ、点灯したトーチを手にしたエリオット(吉沢亮)と、その弟のダレン(北村匠海)がやってくる。どうやら彼らは“ならず者”のようだ。もちろんここは彼らの部屋ではないのだが、何やら「パーティ」をするのだという。彼らはその準備にやってきたのだ。やがて一人の青年が紛れ込み、パーティの主催者らも到着。ゲストも登場し、世にも悍ましいパーティのはじまりへとなだれ込んでいくーー。

 開幕早々から延々と続く、エリオットとダレンによる観客を煙に巻くようなセリフの応酬に、取っ付き難さを感じる方も多いのではないかと思う。「パーティ」という言葉がたびたび登場するが、それがいったいどんなものなのか分からない。彼らの粗野な口ぶりから、何かを祝う華やかなものでないことだけは分かるだろう。二人の突飛な言動が交差するさまには、不穏なものを感じずにはいられない。エリオットは時間がない焦りから怒鳴り散らし、幼さが残るダレンは無邪気そのもの。ときには会話が噛み合わないこともあるーーこんな状況がまず20分以上も続くのだ。置いていかれる観客がいてもおかしくはない。しかしそうならないのが、さすがは吉沢&北村のコンビである。

 この二人といえば、2020年に公開された『さくら』でも兄弟に扮し、昨年は『東京リベンジャーズ』で特別な友人関係を演じていたことが記憶に新しい。信頼できるコンビだ。しかし、今作での吉沢を見ていると心配になってくる。というのも、彼の演じるエリオットは激昂したかと思えば、ダレンの無邪気さに乗ることもある。言動の性質の“明と暗”、“静と動”の変化が激しく、不安定に思えるものなのだ。しかもこれが演劇的な“スイッチング(切り替え)”によってなされているのではなく、あくまでもエリオットの感情の波の揺れによって動いているのが分かる。的確なスイッチングには高い技量が要されるはずだが、この役の内面に深く潜り込んで感情を切り替えるのには、かなりの精神的な負荷がかかるはず。大河ドラマでの主演を終えてすぐにこんな芸当をやってのける吉沢には、末恐ろしさすら感じてしまう。やがてこのエリオットの不安定さは、彼らを取り巻く環境などが影響していることが分かってくる。吉沢はそこまで体現しているのだ。

 そんなエリオットとは対照的なダレンを演じるのが、コロナ禍という苦境にありながらもいくつもの主演映画が公開され、ついに本作で初舞台を踏むこととなった北村なのだ。ミュージシャンとして、ライブ空間で観客を前にしてきた経験は大きいのだろう。初舞台とはいえ、冒頭から彼に対して不安はない。透明感のある伸びやかな声はダレンの純粋さを強調させ、舞台上を自由に跳ね回る身体は彼の無邪気さを印象づける。不条理な世界の中で、エリオットが怒りによって自分を保っているのに対し、ダレンは純粋さで対抗するのだ。北村匠海=ダレンのイノセントと声は、この物語のラストに欠かせないものとなっている。観劇を終えてこそ、ダレン役は北村でなければならなかった理由を誰もが知ることだろう。たった一日の物語とはいえ、ますます荒廃が進み誰もが絶望する世界で、ダレンは叫ぶ。世界が崩壊していく中で、たった一人で負けずに叫ぶ。その純真無垢な言葉の響きにこそ、本作が持つメッセージが込められていると感じる。

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