『エターナルズ』は観る者を試す 観客の手に委ねられたヒーローたちの希望

 ヴェネチア国際映画祭最高賞を受賞し、アカデミー賞で作品賞、監督賞を含む主要3部門を獲得するなど、世界を席巻した『ノマドランド』。その監督を務めたクロエ・ジャオが、マーベル・スタジオで撮ったヒーロー映画が『エターナルズ』である。だが、アメリカの批評家たちによる事前の反応は大きく割れ、公開を前に暗雲が立ち込めていたことは確かだ。しかしその内容は、蓋を開けてみればMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)のなかでも屈指といえる、素晴らしいものだった。

 本作『エターナルズ』で活躍するのは、10人の主人公。先史時代から現代までの7000年以上もの間、人類を捕食者「ディヴィアンツ」の脅威から守り続けてきた「エターナルズ」“地球担当”の面々である。宇宙最初の生命体であり不死の「セレスティアルズ」から生み出され、任務を授けられた超人・エターナルズ種族は、たくさんのチームに分けられてそれぞれの惑星に派遣され、知的生命を食い尽くそうとするディヴィアンツを退け、星の発展を見守っていく存在なのだという。

 その意味においてエターナルズとは、天敵から地球人を救う“守護神”であり、“古き時代からのヒーローチーム”とも呼べる。先史時代からの人々は、世界各地でエターナルズを目撃し、それを神であると認識した。だから、ギリシャ神話やメソポタミア、バビロニアの伝承など、世界中に伝わる様々な神話や宗教は、じつはエターナルズが基になっていたという、ユニークな解釈がなされているのである。

 同名のマーベルコミック作品が原作となっている本作は、主人公となるエターナルズ10人の設定を部分的に変えて、様々な人種や性質を持った俳優たちでキャスティングしていることが特徴だ。マーベル・スタジオ作品はシリーズが進行するにしたがって、たしかに内容に多様性をとり込むことを重視するようになってきた。だが、本作ほどヒーローたちを様々な特性で表現した作品は、これまでなかったのではないか。

 人種という区別だけでなく、聴覚障害を持ったキャストや、大柄な体型をしたキャストなど、俳優個人の特性をそのまま活かしているのも重要な部分である。クロエ・ジャオ監督は、俳優一人ひとりのパーソナリティの情報を対話から得て、それを作中で見せるという作家性を持っている。『ノマドランド』では、俳優ではない人物に、その人の実像に近い役をあてることで、見事にナチュラルな演技を引き出していた。『エターナルズ』では、それがヒーローと、ジャオ監督特有の表現である“ありのまま”の要素とが合流することになったのだ。

 この試みに対して、「ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)がいき過ぎている」という意見もある。多様性を重視したキャスティングがあまりに露骨で不自然だと言うのだ。しかし、聴覚障害を持ったヒーローの存在が非常に珍しいという事実が示しているように、これまでコミックそのものを含め、たくましい肉体を持った白人男性がヒーローとして描かれることが圧倒的に多かったことの方が、むしろ不自然だったともいえるのではないか。

 つまり、本作の試みを不自然だと思ってしまうというのは、“アメリカ映画におけるヒーローは筋骨隆々の白人男性が相応しい”という先入観に、むしろ縛られているように思えるのである。MCU作品全体にしても、初期アベンジャーズと、現在のアベンジャーズを比べると、その人種的、性別的な多様性は見違えるほど豊かになっていることが分かる。

 今回のヒーローたちに近い特徴を持った観客の多くは、その点への受け止め方が異なるはずだ。とくに子どもたちが、ヒーローに共通点を見出し、自分のような存在が強大なパワーを持った世界を救う存在として表現されることに、励まされたり希望を持つことになったケースも少なくないのではないか。そもそも正義のヒーローを描いてきたシリーズが、そんな子どもたちの味方になる表現を目指すのは当たり前のことだ。多様な存在を認め、社会の隅に追いやることがないように考えることが、いまのアメリカにおける“社会正義”だ。

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