『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』は遊び心満載? 作り手の自由度が高める映画の魅力

『007/NTTD』が荒唐無稽なワケ

 15年ほど前、『007 カジノ・ロワイヤル』でダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドを初めて観たとき、物心のついた段階ですでにジェームズ・ボンド=ピアース・ブロスナンだった世代にとってはなかなか強い違和感があった。それはおそらく、このボンドというキャラクター特有の俳優交代の瞬間に初めてリアルタイムで立ち会ったからであり、軟派なブロスナンから硬派で苦悩顔のクレイグへの劇的な変化があり、また『ホテル・スプレンディッド』や『Jの悲劇』などですでにこの俳優の存在を認識していたからなどいくつもの理由が挙げられる。

 スクリーンの中にいる007がジェームズ・ボンドという人物ではなく、俳優が演じているものと俯瞰して観ざるを得ない体験は、ある意味では新鮮なものであった。それでも5年もしないうちに、『慰めの報酬』以後のクレイグの出演作を観れば、もはやそれはジェームズ・ボンドが出ている映画に見えて仕方がなくなってくるのだから不思議なものだ。俳優のイメージをこんなにも強く呑み込んでしまう役柄というのは錚々あるものではない。若き日のショーン・コネリーを筆頭に、これまでボンドを演じてきた6人は皆、その後もボンドであり続ける。それだけこの役柄は特別なものであり、15年間で5作品、確かに走り抜いたクレイグにまずは最大限の敬意を表したい。

 さて、そんなクレイグ版ボンドの卒業作となった『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』は、シリーズ最長尺の163分という、数字の上ではいささか懸念材料になりうるだけの長さを持つ。それでも前作まで手掛けていたサム・メンデスのようなカチッとパリッとした作りではなく、それこそマーティン・キャンベルのような大胆な演出を随所に織り交ぜる抑揚の激しさが奏功し、上質な娯楽映画でありつづける。そしてまたクレイグ版ボンドの集大成として、過去の『007』シリーズのエッセンスも加えながらも、これら5本でひとつの独立したシリーズであることをまざまざと見せつけるのである。

 これにはメガホンを取ったキャリー・フクナガが、『闇の列車、光の旅』と『ジェーン・エア』の初期2作の頃と比べると明確に進化した部分がここぞとばかり発揮されているのだろう。もちろんどちらも実に良質な作品だが、それは脚本の良さや俳優のアクトに関わる演出の良さであったわけで、今回のような大作娯楽に必要な画面的な魅せ方の部分に関しては近年のNetflixでの作品づくりやドラマシリーズなど、自由度の高い仕事の成果なのだと感じずにはいられない(たとえばNetflixで手掛けたドラマシリーズ『マニアック』が物語の微妙さをビジュアルの魅力でしっかりと補う佳作であったように)。

 序盤のイタリアでのチェイスにはじまり、車内で被弾するシーン。キューバでの攻防(アナ・デ・アルマスの出番がもっとあれば尚良しだが)に、クライマックスでの悪役の秘密基地での一連にいたるまで。相変わらずクレイグ版ボンドらしいシリアスさを表面にのぞかせながらも、冷静に考えるとかなり荒唐無稽な展開を積み重ねていき、物語的な整合性以上に如何にして有終の美をダイナミックに飾らせるかにこだわる。ある種の遊び心のようなものが介入していると見え、これだけの作品を楽しみながら作っているかがよくわかる。そして過去の監督作で自らカメラマンを務めたこともあるフクナガだけあって、撮影への尋常じゃないこだわりも見て取れる。本作で撮影監督を務めたのは『ラ・ラ・ランド』のリヌス・サンドグレン。アクションシーンにおける長回しもさりげなく効果的で、しっかり“何が起きているのかわかる”というのはポイントが高い。大作映画は作り手の自由度が作品にあらわれてこそ、その魅力を高めるものである。



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