菊地成孔の映画蔓延促進法 第1回中編

菊地成孔の『イン・ザ・ハイツ』評(中編):掛け値無しに素晴らしい音楽について

『ウエスト・サイド・ストーリー』との比較

 前編に書いた通り、『ウエスト・サイド・ストーリー』の音楽はかのレナード・バーンスタイン(映画音楽の巨匠にして、やはりラテンミュージックのエキゾチックな導入に成功例の多い「エルマー・バーンスタイン」と混同されやすいので注意)である。ユダヤ系アメリカ人、共産主義の支持者、バイセクシュアルの公言と実行、クラシック界というサロン文化の中で、小澤征爾をフックアップした、等々、クラシックマニアでなくとも名声は確保されている。

 ただ一点、バイセクシュアルを公言し、実行していた彼の唯一の妻は、チリ出身のピアニスト、フェリシア・モンテアレグレ。彼女は民族的問題ではなく、性的問題によってバーンスタインと愛憎関係が固着していたがバーンスタインは意に介さず、離婚せずに78年、バーンスタインと3人の子供を残して死去。バーンスタインは献身的に介護をし、彼女の喪失を酷く悲しんだが、『ウエスト・サイド・ストーリー』の音楽を担当する流れと彼女の存在は、現在のところ、無関係とされている。

 バーンスタインのブロードウエイミュージカル進出第1作『オン・ザ・タウン』(1944年→第二次大戦終了前年)は、ミュージカル映画のクラシックス『踊る大紐育』として映画化されたが(筆者は、『イン・ザ・ハイツ』という題名は、この作品への遠いアンサーを意味していると推測している)、事後的に俯瞰すれば、これが『ウエスト・サイド・ストーリー』起用への直接的な布石であると思われる。

 『オン・ザ・タウン』の成功により、等しくユダヤ人迫害の憂き目あっていたリリアン・ヘルマンの誘いで、バーンスタンは、『ウエスト・サイド・ストーリー』と同時に、一般的には無名の『キャンディード(candide)』に着手し、『ウエスト・サイド・ストーリー』を約1年後回しにする。前述1957年、キューバ危機よりも前だが、マッカーシーによる赤狩り全盛期である。

 『オン・ザ・タウン』(『踊る大紐育』)も、『キャンディード』も、音楽は移民複合体的なエキゾチズム導入ではなく、正調のハリウッド・ミュージカルである。つまり、ジャズやマンボ等々の「すでに飼いならされ、搾取されていた」カラードによる都市音楽を巧みに施している、といった状態である。しかし、クラシック音楽家としてのバーンスタインにとって、このジョブ自体が、かなり冒険的かつ、エキゾチックだったであろうことは想像に難くない。

 『ウエスト・サイド・ストーリー』は、バーンスタインがここまで培ってきた「大衆音楽の導入」というエキゾチズムをさらに一歩進める事で、現在、あらゆる音楽ジャンルでカヴァーされ続けている「クール」「アメリカ」といった名曲を生み出した。物語は言わずもがな、ポーランド系のバッドボーイチーム<ジェット>と、プエルトリコ系の<シャーク>の抗争と、そこから生まれる悲恋と死を描く。少年ギャングスタの抗争は、現在の南アフリカ(マネンバーグ地区抗争)を頂点に、未だ世界中で継続中であり、その意味においては、固定される世界の暗部を描いた先進性があった。

 しかし、<ジェット>と<シャーク>が中立地区のダンスホールでダンスバトルを繰り広げる(マイケル・ジャクソン「BAD」MVのリファレンス)際に流れる「クール」は、おそらくブロードウエイ初のモードジャズ技法による作曲作品だが、ここには「ジャズの導入」という、遠く1924年の「ラプソディ・イン・ブルー」のエコーの残響であり(「モード技法」による、文字通りの「クール」なサウンドは57年当時でも斬新だったが)、リアルエスニズムとは無縁である。

エキゾチズムからリアリズムへ~「アメリカ」は夢を見ては醒める

 それよりも、楽曲とダンス、歌唱の面立ちが明らかにエスニックである、「アメリカ」は、プエルトリコ系<シャーク>が、ヒスパニックの誇りと合衆国への愛憎を炸裂させる名曲だが、ここで画期的だった6/8拍子の使用(厳密には6/8と3/4が交互に反復される形式)は、リアルではなく、バーンスタインの脳内が、昔日、デューク・エリントンの脳内で行われた「空想のエキゾチズム」を継承した結果である。

 そのリズム形式は、実際に中南米音楽を原作として依拠してはおらず(=この形式の中南米音楽はなく)、中南米諸国の宗主国であったスペインの舞踏リズム(スペインの民族舞踏であるバイレス・レヒオナーレスや、ロマ族が創出し、世界的に定着したフラメンコ等々)や、マグレブと呼ばれる北西アフリカ一帯のクロスリズムを脳内でミックスした、架空のプエルトリコ音楽であり、言い換えれば「1個人が作り出した混血音楽」という意味で、現実のヒスパニック・カルチャーとは階級も意義も違う。

 アフリカ人ではなく、アフロ・アメリカンである、デューク・エリントンの業績と、ユダヤ系アメリカ人であるバーンスタインの業績がエキゾチズムというリージョンの果実だとすれば、リン・マニュエル=ミランダ&アレックス・ラカモア組の業績がどのようなリージョンにあるか、その違いが御理解いただけたかどうかは、この長文だけでは甚だ危うい。ただ、アメリカン・カルチャーという巨大な怪物が、実は建国時からこの2つのリージョンによる対立的な融合によって発展し、同時にそれが、国家自体の骨組みを揺るがせられ続けた歴史だという事実は記しておくべきだろう。

 そしてその一端が、ヨーロピアンカルチャーである「オペラ」のアメリカ化(=玩具化/ 退行化)である「ミュージカル」という、その様々な属性から維持していた、堅牢な関税率の高さを緩め、ストリートカルチャーからの圧力を受けれざるを得なくなる、発達的とも言うべき歴史が(主に駒数の少なさにより)顕著に示しており、その解釈(革命による解放か、解放に見せかけた搾取か、あるいはそれは同義であるのか)が、揺さぶられるようなドリーミーな感動とともに、観客各人に委ねられていることもまた記しておくべきだと思われる。

 アメリカン・カルチャーが牧歌的に夢のように堪能できる時代は終わった。そして、そのことは、再び、実は建国時から開始されている文化的な反復運動なのである。アメリカは、他の国家と同様、夢をみては醒める。それが戦争とエンターテインメントの領域で起こるという点にこの大国の属性がある。2世以降の移民エリート(彼らは皆、高い教育と生活水準を手にしている)たちが、不法移民の問題を扱って大いに躍動させる、その躍動感と、移民リアリティが極めて低い、実質上の同盟国民である我々はどう相対せばいいのだろうか?

■公開情報
『イン・ザ・ハイツ』
ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開中
監督:ジョン・M・チュウ
製作:リン=マニュエル・ミランダ
出演:アンソニー・ラモス、コーリー・ホーキンズ、レスリー・グレース、メリッサ・バレラ、オルガ・メレディス、ジミー・スミッツ
配給:ワーナー・ブラザース映画
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