宮台真司×荘子it『崩壊を加速させよ』対談 「社会という荒野を仲間と生きる」

「パターンの嵐」の中で、擁護したい反復を探し出す

荘子it:そうですね。でも目的論か……。もちろん超越的な何かみたいなものはーー神とかじゃない形であっても、ーーそういうものがあるとする立場は理解できます。でも、それが人格神的な神の目的論なのかというと、正直全然わからない(笑)。荘子のように「混沌」という方が腑に落ちるんです。

宮台:人格神の表象を容認するかは比較的どうでもいい。よく言われるのがバチカンの枢機卿も半分は汎神論者だとの噂話。全ては神の現れだとする汎神論は、神が宇宙を創ったというタイプの目的論ではなく、宇宙自体に知性を認めるインテリジェント宇宙論に近い。でもそれであれば物理学者でも受け入れやすく、現にアインシュタインやホーキングは受け容れた。一つの言説戦略です。

 奇蹟の理解の中核は、目的論を受け容れるか否かにあります。「神が」という人格的主語も、世界(あらゆる全体)が端的initialだということを表すレトリックで、世界が存在すること自体への驚き、つまり奇蹟の感覚を表現しています。だから神はモーセに「私は在るである」と名乗ったとされるのです。世界の「中にある」名指せる何かではなく、「私があるとは世界が在ることだ」と。

 スコラ神学以降の定番は弁神論theodecy。絶対の神があるなら人の世界が不完全なのはなぜか、例えば悪があるのはなぜか、という問いに答える営みです。人が不完全なのはエデンの園で蛇の唆しで知恵の樹の実を食べたから。でもヤハウエは全能です。ならば唆した蛇はヤハウエの意思です。だとすれば、先ほどのインタビューで話したように、「未来の不確実性」や「存在の不確定性」こそが目的論的な奇蹟だということになります。

 不確実で不確定な世界を神が選択した理由は何か。前の教皇ベネディクト16世が、面白いからじゃないかと書いた。完全な存在が完全な存在を創ってもトートロジーであって、創造動機があり得ない。だから、完全な存在が、完全な能力を使い、完全な存在ですら予測できない不完全なものを創った。「お前それじゃねーだろ」と蓮實重彦のようにツッコミながら見ているのが「神」だというわけです(笑)。

 映画の話に戻ると、荘子itさんが黒沢清さんの『スパイの妻』について軽さをモチーフに批評したでしょう。おっしゃる通りで黒沢の映画は軽い。なぜかというと、蓮實重彦の批評が軽いのと同じで、形式に注目していて、それ以外には興味がないからです。だから、大日本帝国の暴走を扱う場合にも、そこに「いつもながらの黒沢的な形式」が発見されるんです。それも見事なまでに。

『スパイの妻』

荘子it:そう、黒沢清監督の新作を観に行くのって、もう「黒沢清の新作を観る」という行為になってきていますよね。驚きはなく、「ああ、黒沢だ」みたいな感じ(笑)。そういう世界観ですね。僕はあの中では、蓮實的に表層のモチーフを切り出して音楽みたいに語るということでは、どうしても納得がいかなかった。だからこそ宮台さんに共感する部分も多くありました。ただ、宮台さんの批評を読んでいて思うのは、表層を志向してる黒沢の映画から、深層をあえて見出しているというか。

 僕はそうしたやり方とは別に、あの「軽さ」自体に倫理的な意味はないのかなと思ったんです。あの映画の時代に作られた山中貞雄の『人情紙風船』だって、めちゃめちゃ軽いラストなわけじゃないですか。でもそこにはすごく悲哀もこもっていて、こういう表現の可能性もあるのかと。あえて深層の重さを持ち出すのではなくーーむしろそれは僕の考えでは濱口竜介がやりたかったことなんだけどーー黒沢清はそれを華麗に抜けたんだ、そしてその方が作品の倫理的な訴えかけは大きいのだ、というロジックであの批評を書いたんです。

 もちろん宮台さんの黒沢清評やインタビュー(参照:宮台真司×黒沢清監督『スパイの妻』対談:<閉ざされ>から<開かれ>へと向かう“黒沢流”の反復)も読んでいたし、それこそ宮台さんが蓮實エピゴーネンに対して反発したように、だったら俺も宮台さん的な映画の読み方を引き受けたうえで、深層や背景への注釈ではなく、表層的な黒沢清の映画をそのまま倫理的に評価するならこういう形になるだろうという風に書きました。

『スパイの妻』

宮台:同意します。ノアム・チョムスキーが有限オートマトンとして形式化したように、人間の表現は数少ないパターンの代数的な組み合わせです。人間の生の前提になる世界の体験の仕方も数少ないパターンの組み合わせ。人格も数少ないパターンの組み合わせ。そう思うから思想書や小説を読む時も映画を観る時も全てパターン化するという訓練を中学高校の頃から続けてきて、パターン認識の語彙はかなりあります。

 どんな難しい思想も実存のパターンから説明できます。ヘーゲルの『精神現象学』を説明する時、世界精神について難しいことを言い、ゲーテとの時代的同型性を語りがちですが、実存批評的には「人間の幸せとは何か」の展開型です。幸せとは脳内物質的な多幸感euphoriaではなく、数多の不幸があったから今があるという存在としての良さwell-beingの感覚です。デタラメを愛でる初期ギリシャ的感覚の一つの解釈でもあります。

 歴史は司馬遷に言わせれば「善人ほど早死にする」ようなデタラメのオンパレードです。それを人の幸いならぬ世界の幸いという観点から振り返るとヘーゲルになります。ところが、その歴史のデタラメも、パターンに還元すると「神様が見ていたらもうそろそろ相当退屈しているだろうな」と思うくらい絞られます(笑)。不確実性や不確定性の下での人間の体験と行為がパターンの反復だからです。

 その意味で、全てがネットにアーカイヴされたZ世代がメジャーになった時点で必要な倫理は、唯一性を探すことではなく、全ては形式の反復だという「パターンの嵐」の中で、それでも擁護したい反復を探し出すことでしょう。言ったら、蓮實さんもそう。一回性を擁護する身振りはなく、もううんざりだという反復を擁護する(笑)。扱う事象の次元は違うけど、それは僕も同じです。

 荘子itさんもご存知のように、それを蓮實さんは「凡庸か愚鈍か」という言葉で表現します。人間は小賢しく振舞う時にこそ「つまらないパターン」を反復すると。蓮實さんから見ると「え、そこでそのカメラなの?」という類の表現をするのは専ら「一回性の罠」にはまったヤツです。ならば一回性ではなく、単なる反復を擁護しようではないかと。それは僕もまったく同じ構えなのです。

 だから荘子itさんのおっしゃる「軽さの中でパターンを擁護する構え」が大事です。重さの比重や涙の比重で倫理を計るべき時代はとっくに終了しています。ただ、繰り返しになるけど、蓮實さん的なパターンの擁護は、今では単に退屈です。実際、蓮實エピゴーネンが出て来ると「またか」とうんざりするでしょう(笑)。だったら別のことをやらなければいけないんですよ。

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