宮台真司×荘子it『崩壊を加速させよ』対談 「社会という荒野を仲間と生きる」
「イエスもひとつの型だ」
荘子it:方法と、ある意味で遺産を相続しようとしているという意志においては、宮台さんと蓮實さんはかなり近い。でも蓮實さんは「表層に留まれ」と言ったのに対して、宮台さんは「深層の実存の部分に迫れ」ということですよね。この本(『崩壊を加速させよ』)を読んでも、またこれまでの発言でも「体験質=クオリア」という言葉が何度も出ています。宮台さんは「クオリア」を「体験質」と言っていますが、それって実は独特な言い方だと思っていて。「クオリア」というと、普通は「体験質」ではなく「感覚質」と訳すじゃないですか。
たとえば「マリー(メアリー)の部屋」と思考実験があります。「赤」という色の知識だけをモノクロの部屋の中で与えられたマリーさんは、外の世界に出て「赤」を初めて見たときに新しい感覚を得るのか、という実験ですが、その新しい感覚ーー知識や記憶と関係ないものーーが「クオリア(感覚質)」だと思います。一方で、宮台さんの「クオリア」は「体験質」だから、それまで培ってきた記憶、文化的な遺産とかがあって初めて知覚できるものですね。これは明らかにわざと使っているよな、と思って。
宮台:そう。生得的ならぬ習得的な要素に注目したからです。出発点は、リアルサウンドの特集インタビュー(参照:宮台真司インタビュー:『崩壊を加速させよ』で映画批評の新たな試みに至るまで)にある通り、表現史の授業での違和感です。僕はロジカルな説明をするので「みんな分かった?」と尋ねると「分かりました」と答えるけど、「戦前や60年代の若者が何を体験したかなんて分かるはずがない」と(笑)。
つまり、ロジカルには分かることとは別に、何を体感できるかです。実際、僕の言うことが分かるという学生の多くは、ロジックが分かっていても僕が伝えたい「やむにやまれなさ」みたいな肝心の部分は伝わっていない。そこで、概念図式を説明した後、それをフォローアップして音楽や映画を体験させると、初めてみんな「目から鱗が落ちました」と報告してくれるんですね。
音楽史や映画史だけでなく、哲学史や学説史でも同じです。ヘーゲルやハイデガーが書いた「難しいこと」を君らの体験に引きつけてパラフレーズするとこうなる、と示せた時に初めて、ヘーゲルやハイデガーのロジックが学生の世界観と動機付けに影響を与えるようになります。このパラフレーズは難しくて、ヘーゲルやハイデガーの概念の体験質的な血肉化が要ります。
こうした方法はガダマーやテイラーの解釈学を勉強しながら身につけましたが、いずれにせよクオリアを「感覚質」と訳す時の「ロー・マテリアル(感覚的与件)をどう体験するか」いう水準とは、だいぶ違った水準の問題です。なぜなら、哲学史などの例では「かなり構成された概念に、かなり構成された体験の裏打ちを与える」という営みだからで、「体験質」と訳すしかないんです。
大事なのは、生きてきた時代の特殊性や期間の長さゆえに年長者が「表現」から得る体験質を、その時代を生きたことがないし短い期間しか生きてきていない若い人に、どう受け渡すかです。さもないと、分かっても動機づけらず、何かを伝承したくても継承線が途絶します。でも言葉が通じると意思疎通したつもりになる。英語が喋れると英語圏の人と意思疎通したつもりになる。でもそんなに簡単ではありません。
荘子it:会話というのは言葉のキャッチボールをしているようで、実はその背後にあるものをなんとなく無意識に交換するものですよね。言葉はあくまでレールみたいなもので、その上をちゃんと見えない何かが走っている。
宮台:おっしゃる通りです。
荘子it:なるほど。独特な言葉の使い方がやはり意図的なものだったと確認できました。実存批評や、自分のゼミを通して、若い世代に「体験質」(=記憶)を共有/継承し、論理的な「わかった」を越えた本当の意味で享受可能にするのが、宮台さんの近年の仕事の目的なわけですね。
リアルサウンドのインタビューの中で「最後の1%は実存批評じゃまかなえない」と宮台さんは言っていました。たとえばキリスト教の神が実在するかはわからないけれど、イエス・キリストという人が、短い活動期間で世界を変えたということをどう捉えるかが1%にかかっている、と。イエス・キリストってもともとユダヤ教徒っていうか……。
宮台:自分は誰よりもパリサイ派(ユダヤ教徒の主流派)だと思っていた人です。
荘子it:そう。ルーツがあるんですが、それこそ映画におけるキリストの表象を見ても(『奇跡の丘』『パッション』etc)当時の教会からすごい迫害されているわけで、つまりある意味で破壊者だったわけですよね。
宮台:鋭い指摘です。当時の律法は神が敷いた法律だから、律法破りのイエスは犯罪者です。なぜ律法を破ったか。ユダヤ教はめちゃめちゃ過去の記憶にこだわる宗教だけど、それを踏まえてイエスは記憶を切断しようとしたからです。だからこそ、民族宗教(旧約)から世界宗教(新約)に飛躍できました。民族の歴史的な記憶に拘束されていたままだったら、絶対に世界宗教には飛躍できなかった。
イエスは痩せこけて悲劇的形相で十字架に掛かるイメージだけど、当時のエッセネ派つまり放浪する信仰者のイメージを模倣したもの。一説ではイエスは豪放磊落で、大酒飲みで、大食漢の肥満で、冗談好きで口がうまい、何に対してもどうとでも返せる「軽い男」。だから祭壇の中で酒盛りもした。つまり人々の記憶による不自由を前に、やすやすと記憶を切断した。人々は極大の自由を感じて感染したわけです。
イエスにも記憶はあり、旧約聖書を誰よりも覚えています。普通はそれで不自由になります。でも彼は全てを逆転した。みんなの理解つまり記憶がトータルに間違っていると力説した。みんなが間違っていて私が正しい。その証拠に、と奇蹟を演じて見せ、奇蹟は私の力ではなく、神が私を通じて自らを現したのだと。「そんな言い方もあるのか」というほど実にトリッキーな言葉使いでした。
僕らが汲み取るべきは、イエスも一つの型であることです。だから、誰かの姿かたちをとってイエスが再来するという、フリードリヒ・ゴーガルテンやカール・シュミットのような再来待望論さえあった。ただイエスのような型は滅多にない。滅多に出て来ない型が突如として出現したからこそ、たった1年間の活動で世界史がまるで変わり、人間が自由に世俗を操縦できるようになって、近代社会に繋がったのです。
その意味で、イエスの存在そのものが奇蹟です。それを、あらゆる全体という意味での世界(宇宙)の目的論的なわざだというのが最後1%の飛躍です。「なぜイエスが存在するような世界があるのか」という飛躍です。それが奇蹟にまつわるオントロジカルな感覚です。最近の物理学者の間ではなぜ宇宙はあるのかという疑問が沸騰します。無数の並行宇宙の一つがこの宇宙だと説明するにせよ、なぜ無数の並行宇宙があるのかと問いへと先送りされます。目的論から自由にはなれません。
僕が代々木忠を継承しよう思って始めた性愛ワークショップでもそれを感じます。経験では殆どの女が性交で失神・落涙・号泣・過呼吸を体験する可能性を持ちます。女の多くはそれに気付きませんが、女がそれを現実に体験できれば「自分にすごい能力を与えたこの世界が、なぜあるのか」と開かれます。つまり存在することの奇蹟に開かれるのです。それが「神はいつも隣におられる」です。