満島ひかりの演技の細部を出演作とともに追う 『江戸川乱歩短編集』では明智小五郎役に

「音を探す演技」

「パティ・スミス、ノーランズ、ランナウェイズ、ジョーン・ジェット、プリテンダーズ、ポスターは全部女だ。ただ一人、男はカート・コバーン。超愛してる。あとの男は、最低!」

 部屋の壁に貼られたロックスターたちのポスターにヨーコ(満島ひかり)のヴォイスオーバーが重なる。『愛のむきだし』(園子温監督/2009年)は、カート・コバーンとキリスト以外のすべての男を敵視する女子高生ヨーコを、タイトルどおり全力の“むきだし”で演じた満島ひかりの原点として、多様に示唆的な要素を含んでいる。後年、同じく園子温作品の『ヒミズ』(2012年)で、二階堂ふみが泥まみれになりながらリミッターを振り切った演技を披露したように、満島ひかりは、園子温作品の中で、感情を爆発させ、アクロバティックなアクションを駆使することで、劇中に流れるゆらゆら帝国の曲名(「空洞です」)に倣うかのごとく、心身を極限にまで擦り減らし、空洞化させていく。まるで心と体を空洞化させたその先にあるものをつかむためであるかのような“むきだし”な身振りは、どこか求道者のようですらある。このことは、満島ひかりが作品の持つ「音」を、この頃から演技に引き寄せていたこと、探求していたことを証明しているのかもしれない。後年、『海辺の生と死』(越川道夫監督/2017年)のインタビューの中で満島ひかりは、脚本やプロットを読んで作品の中に光や音を見つけていくことを語っている。

『海辺の生と死』(c)2017 島尾ミホ/島尾敏雄/株式会社ユマニテ

「変身と待機」

 『愛のむきだし』に続いて満島ひかりの評価を決定的にした『川の底からこんにちは』(石井裕也監督/2010年)では、人生における「待機」に多くの時間が割かれている。自分のことを「中の下の女」と評価するヒロイン佐和子(満島ひかり)は、東京で上司からみじめな扱いを受けるが、そのことに対して不当に感じつつも、同時に、状況を当然のように受け止めてもいる。なぜなら自分は「中の下の女」だから。田舎に戻った佐和子を待ち受けていたのは、都会には都会の地獄、田舎には田舎の地獄があることで、そしてその地獄の本質を石井監督は、都会も田舎も根本的に同じ本質として描いている。佐和子の停滞する時間は、汲み取り式のトイレの糞尿を肥料として撒く日々の中で、肥料の栄養を蓄えた一輪の花が咲くというささやかな幸せに支えられている。

 またこういった日常は、『愛のむきだし』でヨーコが言っていた「透明な戦争」(岡崎京子の言葉でいう「平坦な戦場」)の空洞にも通じている。そこからのしじみ工場の再生という急激に前向きな展開で、佐和子は「変身」を果たす。『愛のむきだし』と『川の底からこんにちは』には、「変身と待機」が主題として描かれており、それゆえに「変身」の際の満島ひかりのトランスした演技のコントラストの陰影がドキュメントであるかのような、生きた印象を残す。この技術はまったく別の形で以後の作品に昇華されていく。物語が始まる以前に「変身」を余儀なくされた、またはそれを受け入れたヒロインたちに。

 たとえば、ドラマ『カルテット』(2017年/TBS系)でチェロ奏者のすずめ(満島ひかり)は、父親の企てで超能力少女としてお茶の間に売り出され、世間にインチキ呼ばわりされた過去を隠していた。いつも笑顔だけど自分のことだけは決して話さない大人になったすずめが、真紀(松たか子)に問い詰められて、話を逸らし続ける食堂のシーンの演技(ここで真紀がすずめに語りかける「泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていける」は名台詞だ)。または、シングルマザーを描いたドラマ『Woman』(2014年/日本テレビ系)で、「母親という人格」を受け入れながら貧困の中を懸命に生きるヒロイン小春(満島ひかり)が、自分を捨てた実母(田中裕子)に向かって「母親として当然のことをしているだけで、大変とか、いろいろとか、そういうのないです」と語るシーン。何かをひた隠しにしながら、むきだしにしているような、あるいは、むきだしにしながら、何かをひた隠しにしているような、感情の焦点に不調和を呼び込むここでの満島ひかりの演技は、ヒロインの抱えるバックグラウンド=物語を見事に表象している。

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