【ネタバレ】『エヴァ』は本当に終わったのか 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』徹底考察

※本稿には、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の結末を含む内容への言及があります。

 2007年からシリーズの公開が始まった、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』。その4作目にして、シリーズ最終作となったのが、タイトルを一新した『シン・エヴァンゲリオン劇場版』だ。TVアニメ版『新世紀エヴァンゲリオン』、旧劇場版を経て、再び出発した本シリーズが14年の長期に渡って公開され、前作から8年と数カ月を経て最終作が公開されたというのは、異例づくめといえる出来事だ。このような新シリーズのスケジュールは、庵野秀明監督はじめ作り手側にとっても予想していなかったはずだが、それでも成立してしまうというのは、『エヴァ』全体の熱狂的な人気があってこそだ。製作が長引き延期を重ねながらも、シリーズの興行成績は落ちるどころか、右肩上がりになっていった。

 さらに、公開前に発表された「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」という、最終作となった本作の意味深なコピーが予感させたのは、新劇場版だけでなく、26年前に放送されたTVシリーズや、1997年に公開された旧劇場版も含め、シリーズ全てに決着をつけるという意気込みである。

 さて、多くの期待や不安を受けながら、ついに公開されてしまった『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の内容は、一体どうだったのか。筆者が驚いたのは、「終劇」の二文字が映し出された後、観客席から大きな拍手が起こったことだった。24年ほど前、旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』で同じ文字が映し出されたときとは、まるで異なる雰囲気。そしてSNSでも、当時のインターネット掲示板の荒れた状況とは違い、ネタバレを避けつつ満足げに自分と「エヴァ」との出会いや思い出を語る観客が多い印象だ。

 ここでは、そんな本作の内容と映画としての評価、なぜ、多くの観客たちが自分語りをするのか。そして、本作によって“『エヴァ』は本当に終わったのか”という疑問について、可能な限り深いところまで考えていきたい。

明らかになった新劇場版のコンセプト

 まず、作品が終結を迎えたことではっきりしたのは、依然として謎に包まれていた、新劇場版シリーズ全体のコンセプトである。もともと新劇場版は、“REBUILD OF EVANGELION”という仮のタイトルがついていたように、旧シリーズの「再構築」を企図していたはずだ。そのコンセプトが最も分かりやすく反映していたのが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』であった。この作品では、TVシリーズを基に、劇場版に相応しく映像のディテールを豊かにし、ストーリーをタイトに整理した印象が強い。

 その印象が異なるものとなってきたのが、設定、ストーリーともに大きな変化が見られた『:破』であり、さらに変化が飛躍的に強まった『:Q』である。この流れによって、新劇場版は「再構築」ではない全くの新作なのだというイメージが強化されたところがある。しかし、『:破』も『:Q』も、設定の変更や新しい要素が存在しながら、旧シリーズの「再構築」としての部分が、しっかりあったことは確かだったのだ。そして、本作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、同様に新しい要素が加わりながらも、基本的なストーリーの展開は旧シリーズを軸とし、当初の予定であった「再構築」という役割を、十分に果たしていることが分かる。

 そう言えるのは、『:序』『:破』『:Q』それぞれに加えられた、一見とりとめのないようにも感じられた新たな要素や、TVシリーズなどから抜粋された描写には、今回の結末へと繋がる伏線がいくつも張り巡らされていたことが明確なものとなったからである。

 本シリーズでは、庵野秀明監督が少年時代に地元の山口県で乗っていたと思われる「国鉄型半鋼製電車」の車内からの風景が、主人公・碇シンジの心象風景として、『:序』の段階から登場していた。そして本作では、その列車から降りることで、「エヴァンゲリオン」の全てが終結を迎えることになる。加えて、『:破』で碇シンジの目の前に突如として舞い降りた少女が、彼を“『エヴァ』という物語”から降りることを助ける存在となったのである。このように、新たな終劇のかたちが提出されたことで、これまでの描写の多くに明確な意図があったこと、そして当初の目論見が達成されたことが同時に分かるのだ。

 このように考えると、『:Q』が、ほぼオリジナルストーリーとして、これまでの新劇場版から、かなり逸脱した内容と雰囲気が見られたことの方が、むしろイレギュラーな事態だったように思える。ここで変化が起きた理由は、『:破』から『:Q』の間に、東日本大震災が起きたことが挙げられるだろう。

「ヒトひとりに大げさね。もうそんなことに反応してる暇なんてないのよ、この世界には」

 式波・アスカ・ラングレーが『:Q』で口に出した言葉は、現実の日本で多くの死者や困窮者を出すこととなった災害を通して、90年代の『エヴァ』が編み出した、個人の内面の問題への解答が、本当に生死にかかわる事態においては無力なのではないかという、監督の疑問や葛藤の表出であるように思える。だからこそ、『:Q』は、コンセプトがある程度固まっていたはずの新劇場版のなかで、最も監督の正直な心が反映した、スリリングな私小説でもあり、当時の気分を反映したプライベートフィルムとしての『エヴァ』らしい『エヴァ』だったといえよう。

 そして本作は、そんな『:Q』で出現した問いと、『:序』『:破』で描いた終局への布石を回収し、どちらにも決着を与えるという課題を背負うことになってしまった。そう考えると、本作の上映時間が2時間35分という、劇場アニメ作品としては異例の長尺となり、製作期間が大幅に延びてしまったのも理解できる。とはいえ、それらをもっと駆け足で表現することもできたはずであり、そこであえてそうせずに、新劇場版とともに始まった自分のスタジオを抱えながら、茨の道に進んだ監督の決断には、賞賛すべき部分がある。そして、そのような作品づくりをするからこそ、『エヴァ』は、常識の枠を破ることができているのだといえる。

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