「アニメは実写に、実写はアニメになる」第2回
劇場版『鬼滅の刃』を“列車映画”の観点から読む エモーションとモーションの連動が作品の醍醐味に
映画と観客の関係をメタ的に表現
映画は、一度始まったら巻き戻ることはない。アクシデントがなければ、時間通りに始まり時間通りに終わる。列車も一度走り出したら終点に着くまで戻らず進み続け、やはり事故がなければ時間通りに目的地に到着する。その直進的な映画の在り方が、ページを読み飛ばしたり、戻ったりできる小説や漫画との大きな違いだ。
観客は主人公と一緒に物語を体験する。映画の物語装置としての在り方を指して、加藤幹郎氏は「映画の主人公は、理想的な観客をのせて物語世界を航行するテーマ・パークの乗り物(ライド)のようなものである」と語っている。(※4)
主人公は、なにゆえ主人公なのか。それは、物語の中心にいるから主人公なのだ。物語が終わりから始まりまで主人公はその中心にいて、観客は主人公とともに物語世界を見つめる。映画とは、観客が暗闇の中で受動的に、主人公をただ黙って見つめることで一体化して楽しむ。これは、物語についての暗黙の了解のようなものだ。
しかし、本作は物語と主人公、そして観客の関係についての暗黙の了解を公然と破壊する。テーマパークの乗り物が途中で壊れたり、脱線したりすれば、乗客は不安に陥るだろう。ならば、観客を安全に物語の終点まで送り届けるためには主人公は最後まで主人公でい続けなくてはならない。しかし、本作は主人公が途中から主人公でなくなる。
『鬼滅の刃』の主人公は炭治郎だ。『無限列車編』の物語も、炭治郎が無限列車に乗り込むことで動き出し、炭治郎が煉獄と出会い、鬼に出くわすという流れで進んでいく。そして、列車と一体化した魘夢を炭治郎が仲間の協力を得て倒し、無限列車が派手に脱線する。
直進し続けた列車が脱線によって止められると同時に、主人公として物語を牽引してきた炭治郎が主人公ではなくなる。本作の真の主人公は煉獄であると言われるが、列車が脱線した後、主人公らしく振る舞うのは確かに煉獄杏寿郎である。