<特別編・前編>宮台真司の『ミッドナイト・ゴスペル』評:サラダボウルの中にいた「見たいものしか見ない」主人公が「倫理」に気づく

Netflixオリジナルアニメ『ミッドナイト・ゴスペル』の魅力

ダース:だから『ミッドナイト・ゴスペル』は、アメリカのこの先みたいな。futureアメリカみたいなのがああいう世界なんじゃないかと感じて。小さな家が1個あって、そこにシュミレーターが1個あって、好きな場所に行けるみたいな。そういうビジョンに接続してくるのかなっていう気がしたんですけど……。ちょっと強引にでも、『ミッドナイト・ゴスペル』に話を持っていこうとも思っているんですけども。『ミッドナイト・ゴスペル』の成り立ちは、調べるといろいろ出てくるんです。

宮台:それって教えてくれます?

ダース:アニメ監督のペンデルトン・ウォードの新作で、ダンカン・トラッセルというコメディアンがずっとやっていた300回分ぐらいあるPodcastーーいろんなゲストを招いて喋っているーーの中から8話を選んで、そのインタビューを元にして、アニメにしたと。アニメにするといっても、Podcast内で喋られていることに画をつけるとかでは全く無くて。全然違う画をつける。でもそこで喋っている登場人物のお互いの会話という形で、アニメの中では進行するけど、喋っていることが映像とリンクしているのかしていないのか分からない。

 ダンカンって人のPodcastをメインにしているけど、アニメ上はクランシーっていうキャラクターを主人公にしていて、クランシーがいろんな星にぶっ飛んでく。ぶっ飛んでくと言っても、シュミレーターという女性器を模した機械みたいなものがあって、そこに頭を突っ込んで、自分が入力した「この星に行きたい」みたいなとこを押すとアバターが飛んでいって、その星でいろんな体験ができるっていうシュミレーターゲームっていうのをやっているーーいろんな人がそういう遊びをやっているらしいぞと、ちょっと描かれているーー。その星に飛んでいったら、その星の人にクランシーが「インタビューしていいですか。スペースキャストで宇宙中に配信するので」と言って、いろんな人の話を聞いていくっていうアニメ。Netflixで、今のところ8話公開されているんですが、作り上、8話で完結しているとも取れます。

宮台:8話目がフィニッシュに相応しい回だったね。お母さんと出会い、記憶を遡り、死を受け入れる態勢になる。そして、死を受け入れる態勢から、更に過去や現在を振り返る。シリーズの終わり方に相応しいよ。つまり、シーズン2があると不自然になっちゃうね。

 ところで、今ダースさんの話を聞いていて、なるほどと思った。インタビューが先に取られて、映像が後でつけられたのは、誰が見ても明らかだったからだね。例えば、普通のアニメと違って、二人の声がクロスしてかぶっちゃうところがたくさんあるでしょ?

ダース:そうなんですよね。アフレコで画に合わせて吹き込んでたら絶対起きない。同時に喋ったりしていて。

宮台:その上、映像が必ずしも会話とシンクロしていない。ここが天才的なアイディアだと思う。1960年代に流行ったサイケデリックのモチーフを前面に押し出しているということだ。リニア(線的)な体験じゃなく、パラレルな体験を同時に与えようとしている。60年代には日本でも久里洋二や田名網敬一などがサイケデリック・アニメーションを主導し、世界でも評価されていた。その日本を含めて「60年代のサイケデリック」と「今のサイケデリック」がどれくらい同じでどれくらい違うかが、考えてみたいポイントだよね。

 20世紀の末からインターネット化に押されて、「脳に働くドラッグ」が合法非合法を含めて大きなブームになった。昨今では、医療用大麻を皮切りに、娯楽用大麻まで含めた大麻解禁の世界的な流れがある。Netflixでも『クッキング・ハイ』っていう有名な……(笑)。

ダース:マリファナ料理対決番組ですね(笑)。

宮台:そう。あの番組が今昔の違いをすごく際立たせてくれている。例えば、そこには、かつての「ここではないどこか」の非日常の趣きはなくて、「生きやすくするツール」という日常の趣きが目立つよね。「感覚の拡張」「社会への閉ざされからの解放」といったイデオロギーは影を潜めている感じだ。どうしてそうなっちゃったのかを、今回考えてみたいと思っている。

【サイケデリックは「解放」の時代】

宮台:若い人たちの基礎知識としていうと、サイケデリックの時代は、ヒッピーに象徴されるドラッグムーブメントの時代で、一口で「解放の時代」だった。そのシンボルがLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)。LSDによる「感覚の拡張」を実験していたジョン・C・リリーとテレンス・マッケナーのような科学者もいて、そうした実在した研究をヒントにした『イルカの日』(マイク・ニコルズ監督、1973年)、『アルタード・ステイツ』(ケン・ラッセル監督、1979年)、『ブレイン・ストーム』(ダグラス・トランブル監督、1983年)のような映画も作られた。一部はゼミの必見映画に指定したよね。

ダース:曲でいうと、ビートルズの「Lucy in the Sky with Diamonds」っていうのは頭文字が「L・S・D」で、そのジョン・レノンの歌詞世界ーーまあわけ分かんないんですけどーーをアニメ化すると、『ミッドナイト・ゴスペル』的な表現が全然可能。「ニュースペーパータクシーが岸にやってきた」とかそういう歌詞なんですけども(笑)。それがLSDっていうイメージを持つ時に、簡単にアクセスできる表現の1つかなと。

宮台:アルバート・ホフマンによるLSDの初合成が1938年。幻覚作用の発見が1943年だから、歴史は浅い。国レベルでの規制は70年代に入ってからの話だ。それまではどの国でも自由にLSDを使えたってことだね。サイケデリックの時代には合法だったんだよ。まずそれが基礎知識になる。

 アメリカは1965年の北爆開始からベトナム戦争に本格参戦。60年代後半は徴兵される若者世代を中心に反戦運動が激化して、「若者(反体制)・対・大人(体制)」という世代コードを背景に、フラワームーブメント(ファースト・サマー・オブ・ラブ)を中心として、アートから音楽まで巻き込んだカウンターカルチャーが花開いた。その中核にLSDによる「感覚拡張」があって、表現者を含めて若い世代にインスピレーションを与えたんだね。

 ところが、1973年のパリ協定後に米軍が撤退した。2万人以上の20歳代の若者が死んで反戦世論 が巻き起こり、これを気にしたニクソン大統領が1972年のウォーターゲート事件を起こして政権がもたなくなった結果だ。この米軍撤退までにLSDの非合法化が各国で進んだ。だから、LSDを核とするカウンターカルチャーの拡大と終息は、ベトナム戦争とシンクロしていたわけ。戦争が終わってみると、LSDの所持も使用も重罰化されていたという次第だ。

 アメリカが敗戦して、カウンターカルチャーが終わり、「若者・対・大人」という世代コードも風化した。ところが「感覚の拡張」というモチーフは、世代コードと無関連化しながら、むしろ拡がっていった。例えば「ドラッグレスハイ」「ナチュラルハイ」というキーワードが生まれた。LSDなどのドラッグを頼らない「感覚の拡張」という意味だよね。

 これはもはやカウンターではない。敗戦という「アメリカの没落」に耐えるための「ここではないどこか」だった。かつてLSDを賞揚していたティモシー・リアリーの唱導もあって、コンピューターグラフィクスやコンピューターサウンドが「感覚の拡張」に役立つとか、デーパックを背負ったサバイパル旅行が「感覚の拡張」に役立つ、という動きに繋がった。これらは「解放」ではあれ、個人的なもので、カウンターカルチャーではないよ。

 そうした流れから、東海岸的コンピューター産業(IBM的なメインフレーム)から東海岸的コンピューター産業(Apple的なガレージコンピューター)へ、という動きも出てきて、今のシアトルに繋がった。時代の流れを背景として、IT技術者やテクノロジストはLSD文化の流れを汲んだ「解放の旗手(フラッグホルダー)」だ、というイメージが続いた。それがサイケデリックの「今昔」を考える時に大事になる。「社会の解放(戦争からの自由)」から「個人の解放(生きづらさからの自由)」へという流れは、ドラッグでも同じだったからだよ。

ダース:例えば「解放の旗手」という旗印を持っているジャンルの中に、カリフォルニアでドアーズとかグレイトフル・デッドとかが60年代後半から持っていた旗を、スティーブ・ジョブズも違う形で持っているっていうイメージってことですよね。

宮台:そう。彼にもバックパッカーだった時代がある。サバイバルキットを持って森に入った。彼だけじゃなくて、後のテクノロジストたちの多くが70年代前半にそういう営みをした。日本でも、スイスアーミーナイフみたいなサバイバルキットが70年代半ばに大流行したし、そうした「ドラッグレスハイ」を後押しした「Whole Earth Catalog」を木滑良久が真似して「メイド・イン・U.S.A.・カタログ」を出して、それが『POPEYE』に繋がった。こうして、「ここではないどこか」ならぬ「ここを読み替える」ためのカタログ雑誌ブームが始まった。

ダース:いまあれって、持ち歩けないんですかね、十徳ナイフって。

宮台:ふふふ、いまはダメね(笑)。当時は良かったんだよ。実際どこでも売っていた。

ダース:なんかお土産で、僕も子どもの頃にもらいましたよ。

宮台:僕も誕生日にプレゼントされた。当時は火起こしのためのルーペもついていたよ。ところで、間を飛ばすけど、今はIT技術者というと「カリフォルニア・カルチャー=社会の解放」ではなくなった。ピーター・ティール(アメリカの起業家)やイーロン・マスク(アメリカの実業家)のような巨大投資家・兼・IT技術者のイメージだよね。その多くがトランプ大統領を支持する新反動主義者ないし加速主義者だ。金持ちが嫌がるし社会的コストもかかる「再配分」で人々を幸せにする代わりに、社会構造をいじらずに「ゲーミフィケーション(仮想現実・拡張現実)&ドラッグ」で人々を幸せにしようというね。

 一口でいえば、人々をリベレイトする(解放する)ためのサイバー&ドラッグから、人々をテイムする(手懐ける)ためのサイバー&ドラッグへ、という流れだ。LSDも、今は「解放のツール」から、マイクロ・ドージングによる「イノベーションのツール」へ、という流れに組み込まれつつある。「社会の解放」から、“社会を解放しないための手懐け”を含めた「個人の解放」へ、という流れだ。言い換えれば、「解放のツール」から、“仕事しやすさ”を含めた「生きやすさのツール」へ、という流れだね。これからは企業や国家が生産性を競うための「コストがかからない生き方のツール」としてマイクロ・ドーズド・ドラッグが使われるだろうね。例によって「頓馬な日本人」が最後尾でついていく(笑)。

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