『となりのトトロ』はなぜ多くの人々を感動させるのか 唯一無二の作品になった理由を解説

 サツキとメイを通して描かれるのは、感受性や創造力だけではない。作中の数々の描写を見ていると、幼いメイは自分以外の人間に対して思いやりを持つことが、まだ不十分であることを示唆している描写が散見される。もちろん、それは年齢からいえば無理のないところである。

 それがよく分かるのが、メイが寂しさからサツキのいる小学校にやってきてしまう場面だ。多感な時期のサツキが、このことによってクラスメートたちに奇異な目で見られるというのは、非常に恥ずかしいことだったはずだ。しかしサツキは、メイをきつく叱るようなことはしない。それは、サツキにメイの心情を察する思いやりがあるからだ。しかしその帰り道、突然の通り雨に遭った姉妹は、隣家のカン太が傘を貸してくれるという経験をする。カン太にはサツキに対する親切心以上の複雑な感情が存在するのだが、そのような自己犠牲的に見える行動は、少なくともメイには良い影響を与えていたのではないか。

 それが、母親が死んでしまうかもしれないという不安にかられたサツキが大泣きするシーンに結びついていく。いつも明るい姿ばかりを見せていたサツキも、まだまだ子どもであり、母親にいつも側にいてほしいという感情を隠さなくても良い立場のはずである。しかし、自分がしっかり者の姉でなければいけないという義務感から、メイの前では弱いところを見せないようにしていたのだろう。頼ることのできるおばあちゃんとふたりきりになったことで、感情が抑えきれず大泣きしてしまうのだ。

 その姿を、離れたところからメイは見ていた。メイはそこでおそらく初めて、自分以外の人間のために行動しなければならないという、強い義務感と覚悟を持ったはずである。サツキのためにも、とうもろこしを母親の病室に届け、病気を治したいという思いつきは、結果としてはサツキを心配させ、村に騒動を起こす事態へと発展してしまう。だがそれでもメイは、誰かのために力を尽くすことのできる人間へと成長したのだ。

 そして、行方不明になったメイを探すため、何度も全力疾走を繰り返すサツキの姿にも、我々は胸を打たれることになる。このように、誰かを大切に思い助けようという気持ちは、普遍的な感動を呼び起こす。それは、ただその描写が素晴らしいというより、宮崎監督が本作で積み上げてきた、巧みな人間描写の数々が下支えすることで花開いた瞬間でもあるといえよう。

 宮崎監督が評価するアニメーション作品には、ロシアの『雪の女王』(1957年)や中国の『ナーザの大暴れ』(1979年)のように、愛する者を守るための自己犠牲的な描写のある作品が多い。これらは、ただの美しい人間性というよりは、一種の激情をともなう無謀さをはらんでいる。愛する者のために、理屈を飛び越えて突き進む激しい感情、これこそが宮崎監督の表現の核にある部分である。それがいささか常軌を逸しているからこそ、この激情は我々の心を強く揺り動かす。

 だが、この深刻な終盤の事件は、あっけないほど華麗に、マジカルな解決を見せてしまう。もはやメイの幻想を超えて、現実の世界にトトロたちが奇跡を起こしてしまっているのだ。そのことで、ここで解説してきたような、作中の文学的な描写は、部分的にぶっ飛んでしまう。しかし、この展開の強引さが、本作にむしろ非凡な印象を与えているのも確かなのである。これは宮崎監督が、この姉妹を幸せにするために作品に与えた、一種の“デウス・エクス・マキナ(古代ギリシア演劇における都合の良い展開)”であり、ここまで宮崎監督自身が本作で行ってきた、現代的でリアルな物語づくりのバランスを破壊するような表現である。ここでは、宮崎監督自身が、ある種の狂気ともいえる激情に突き動かされているようにすら感じられるのだ。

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