『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、追加シーンによって何が変わったのか

長尺版『この世界の片隅に』は何が変わった?

 すずさんは戦争によって、広島に生きる身内や、身近な人の命を失い、自身も取り返しのつかない負傷を受け、それでも必死に生き続けていく。だが、ラジオで天皇の発する、敗戦を意味する玉音放送を聴き、はじめて国に対して怒りを表す。「覚悟の上じゃなかったんかね! 最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね!」

 日本は当時、他国に攻め入り、また爆撃などの攻撃を受けたことで、国内外の多くの民間人を死なせてしまった。すずさんもまた、多くの被害者の一人である。その被害があまりにも拡大してきたから、新型爆弾が国の中枢をいつでも破壊できる状況になってしまったから、いまさら戦いを放り出すというのか。ならば、自分の負傷や、命を落とした人々は無駄に死んだことになるのか。無責任じゃないか。それが、すずさんの怒る理由であろう。国家は覚悟もなく欺瞞によって国民を戦争に巻き込み、犠牲にしていたのだ。

 すずさんは、半ばだまされるかたちで結婚し、その裏には、知りたくない事実が隠されていた。その事実を知ることと、玉音放送によって国の隠されてきた実態に気づいてしまう構図は、同質のものである。女性における結婚制度と、国民における軍国主義。被支配者と支配者によって作られる“犠牲を生む”構造。それはまた、本作で示されている、遊廓で働かされ続け、命を落とす遊女の運命にも重なっていく。

 しかし、絶望の底に突き落とされたとしても、人は生きていかなければならない。「夫婦ってそんなものですか」と周作にぶつける、すずさんの不満の言葉は、本作の方がより重く響く。すずさんと周作は衝突することで、より深く理解し合い、本当の意味で夫婦らしくなっていく。もし、すずさんが自分の心を押し殺し、表面的な態度をとり続ければ、家庭は冷え切っていくだろうし、破綻を迎えることになっても不思議ではない。この二人の関係を深く掘り下げたことで、彼女たちと同様、“国に対してただ従い続けることが国民のかたちではない”という、一つの見方が強調されてくる。

 この物語は、“さらにいくつもの”場面が追加されることで、ただ戦争を批判するだけでなく、その本質に、犠牲者を生み出し続ける社会の暴力的な構造があったことを強調している。その意味で、本作は本質的にオリジナル版と同じものを描きながらも、また違う味わいの作品になったということがいえよう。

 それだけに、オリジナル版との共通部分にある問題が、さらに目立ってしまうということも起きてしまっている。それは、やはり玉音放送の箇所。原作のすずさんのセリフが改変され、戦争が国家犯罪であることを示唆する部分が、原作よりもソフトな表現となってしまった点についてである。

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