アーカイブが繋げる未来 『わたしは光をにぎっている』が映す、失われつつある「東京」

『わたしは光をにぎっている』が映す“東京”

 山村暮鳥の「自分は光をにぎつている」(詩集『梢の巣にて』)という詩から引用されたタイトルを背負った、中川龍太郎監督の最新作『わたしは光をにぎっている』は、上京してきた20歳の主人公の視点から移り変わりゆく街並みを記録する映画であると同時に、現在数多いる若手俳優の一角として輝きを放つ松本穂香という女優が、次のステップへと進もうとしている今この一瞬を記録した映画である。2019年だけでも本作を含めて3本の主演映画が公開され、その一方で完全に端役に徹した映画も3本公開されるという不思議なフィルモグラフィを持つ松本にとって、この映画は間違いなく代表作として語り継がれる作品になることだろう。

 物語は、長野県の野尻湖近くで民宿を営む祖母と暮らす主人公の宮川澪が、祖母の入院と同時に民宿をたたみ、東京の下町・立石にひとりで上京してくるところから始まる。彼女は父親の友人である三沢が経営する銭湯・伸光湯に居候しながら、慣れない都会で仕事を探し始める。しかし口数の少なく不器用な性分もあって、やっと見つけたスーパーの仕事もすぐに辞めてしまう。そして、祖母の言葉に諭されるようにして伸光湯で働くようになった澪は、近所の人々と交流を持つようになるのだが、やがて区画整理によって伸光湯がなくなることを知らされることに。

 都内では近年、もう来年に迫った東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会と、その後の国際的な都市としての発展を目論んだ再開発が極めて急速に進められている。都心部では商業施設やオフィスビルなどの超高層ビルが次から次へと建てられ、いわゆる下町と呼ばれるエリアではタワーマンションの建設が相次ぐ。いずれにしても街全体の景観がガラリと生まれ変わり、それまで築かれてきたその街の歴史は紛れもない“過去”のものとされ、やがて忘れ去られてしまうことだろう。本作の舞台でもある葛飾区の京成立石駅周辺も同様で、線路を挟んだ北側と南側に合わせて3つの都市計画が、今まさに進められている最中なのである。

 中川監督は自身が育った川崎市の登戸周辺の再開発によって、慣れ親しんだ景色が跡形もなく消えてしまったことをきっかけに、本作を着想したのだという。今でこそ“映画”というコンテンツは物語という一種のスペクタクルを享受することをメインとして機能しているが、その根源を辿っていけば、ある時代・ある場所の情景を記録するための装置として生まれたものに他ならない。それこそオリンピック然り、象徴的なイベントごとや事件、人々の言葉を記録するドキュメンタリー映画もあれば、失われようとしていく人々の暮らしなどの文化を映したロバート・フラハティのような記録映画も数多く存在してきた。

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