『わたしは光をにぎっている』松本穂香が“絵になる”理由 『四月物語』松たか子を想起させる瞬間も
『四月物語』の松たか子と本作の松本穂香
再開発に揺れる町を舞台にしながら、開発業者と町の住民の対立のようなドラマティックな展開は描かれない。まるで日常系アニメのように大きな事件は起こらず、消えゆく町での生活を淡々と映し出す。松本穂香の芝居についても同様のことが言える。本作で彼女は滅多に表情を崩さず、言葉も少なく、ゆっくりと歩く。初めての人を前にすると立ちすくんでしまい、微動だにできないが、そんな彼女だからこそ、発する台詞、わずかな動作にも大きな意味がある。アニメは全て絵である。どんな些細な芝居でも描く手間は膨大であるから、必然、本当に必要な芝居だけが選択され描かれる。それゆえ、アニメの人物の動作には必ず表現上の意味がある。本作の松本穂香の芝居も、動きが少ないゆえに全ての動作に意味があるように感じられる。そして、多くのアニメは動かさなくても様になるように設計されている。立ちすくむだけの松本穂香も見事に様になるのは、彼女がまさに「絵になる役者」だからこそだ。
東京に向かう電車を待つシーンでは、列車が来たことにみなが反応しているのに、松本演じる澪はその列車に乗り込む本人であるにもかかわらず、反応が遅れてしまう。銭湯で初めて出会う人々を前にした時、微動だにできず立ち尽くしてしまう。表情を変えることも少ない。『アストラル・アブノーマル鈴木さん』で見せた無軌道ともいえる躍動感とは対照的だ。動きも表情の変化も少ないからこそ、彼女の発する台詞、わずかな動作には全て強い感情をうちに宿している。そして、印象的なのは本作の松本穂香は決して早く動かないことだ。走るシーンなどは一つもない。歩く速度も極端にゆっくりである。前述したように、再開発に揺れるこの町は、どこか東京の発展の速度から置き去りにされたような場所だ。
町の変化が遅いゆえにここには昭和の景色が未だ残っている。そんな町を強制的に再開発という形で変化の速度を上げられてしまうことへの抵抗であるかのように、松本穂香の足取りはゆっくりなのだ。ゆっくりと変化してきた町を体現する存在として、静の芝居が求められたわけだが、それは彼女が立ちすくむだけでも絵になる役者だから可能だ。役者は、ただ美人であるだけでは絵にならない。立ち尽くす時にも心から立ち尽くすことができているからこそ、「風景に溶け込みながらも埋もれきらない(中川龍太郎監督)」存在感が発揮できるのだ。
風景に溶け込む松本穂香と本作は、あたかも水墨画の美人画のように清廉だ。精緻に描かれた絵画のごとく、本作の風景は松本穂香がいなくては完成しなかっただろう。それほど彼女は自然に「絵になる」のだ。
なぜ松本穂香は「絵になる」のか。それは彼女が自覚的に自らの魅力を引き出すことができているからだ。本作を観て、少女漫画的に東京の街を撮った岩井俊二監督の『四月物語』を連想する人が多いそうだ。当時すでに大スターだった松たか子が見せた『四月物語』での自然体の佇まいは、映画冒頭で舞い散る桜のようにどこまでも軽やかで、張り詰めたスター生活から抜け出したかのように素の魅力に溢れていた。
どこまでも軽やかな『四月物語』の松たか子に対して、本作の松本穂香の足取りは重くゆっくりだ。しかし、その素直な佇まいは『四月物語』の松たか子のように透明感がにじみ出ている。岩井俊二いわく、良い女優とは「天然のよさがあって、それを、ひるがえって自分でちゃんと見られて、セルフコントロールしてそれが引き出せる人」(『NOW and THEN 岩井俊二』P24、角川書店)。素の魅力が素晴らしいと評される役者は数多いが、それを自覚的に引き出せるかは別問題。松本穂香は本作でその資質を確かに示してみせた。