『ジョーカー』は“ヒーロー映画ブーム”を終焉に導くトリガーに? 批判も賞賛もできる“二面性”

批判も賞賛もできる『ジョーカー』の二面性

 主人公アーサーは、『バットマン』シリーズの舞台である“ゴッサムシティ”で、老いた母親の介護をしながら、底辺の生活を余儀なくされている中年男である。精神的な問題から、ストレスがかかると笑いが止まらなくなるという症状を持ち、周囲から気味悪がられている。ロバート・デ・ニーロ演じるベテランのコメディアンに憧れの念を抱き、自分もまたコメディアンになりたいという夢を見ながら、出張ピエロの事務所に在籍しているものの、将来の展望は暗く、そんな不安をごまかすかのように、社会保障によって得られる7種類もの抗精神病薬に頼っている状況。帰路にそびえる急な階段を、重い足取りで登っていく悲痛な姿に、彼の深刻な日々が象徴されている。

 そんな現実の重圧は、アーサーが成り行きのなかで殺人を犯すことで奇妙にも、むしろ軽減されることになる。初めての犯行の直後、彼は逃げ込んだ公衆トイレの中で静かに法悦のダンスを始めるのだ。世の中に何の影響も及ぼすことができないと思われた自分が、殺人というかたちであれ、人々の注目を集めるような“重大なこと”を成し遂げたのである。ホアキン・フェニックスが、同タイプの演技者であるロバート・デ・ニーロのように、役そのものになりきる“メソッド演技”で臨んだ、このアーサーの悲痛な日常からの解放の表現は、その類い希なリアリティによって、観客に不気味なカタルシスすら与えてしまう。

 ここで殺害された人物たちは、格差社会のなかで一流企業の証券マンとして我が世の春を謳歌し、貧乏人や女性を見下して暴行するような悪人として描かれる。彼らをあくまで一般市民と考えれば、殺害に及んだアーサーの行為は悪行だが、彼らを社会に巣くう非道な人物たちだととらえれば、アーサーはある意味でヒーローに接近していると捉えることもできなくはない。実際、格差社会に虐げられた暴徒たちにはヒーローとして崇められるのだ。この異様な二面性というのは、さながら『タクシードライバー』のトラヴィスの顛末のようであるし、同時に、正義の名の下に自警活動を行うバットマンの持っている、ある種の異常性にも通底する。

 ここでさらに連想するのは、アメリカで頻発する銃乱射事件である。本作の「この人生以上に硬貨(高価)な死を」というセリフに象徴されるように、何一つうまくいかない現実を生きる者にとっては、生よりも死の方がマシに思えるのは理解できるし、そう感じる自殺者が増えていけば、どうせ死ぬのなら、自分をバカにしているような人や幸せな人、社会的地位の高い人を道連れにしてやりたいという感情を持つ人物も出てくるはずだ。そういう人間にとって、もはや死はそれほどおそろしいものではない。だから捨て身で凶行に及ぶことができる。本作は、そういった考えに至る一人の人間の心理を、ホアキン・フェニックスの見事な演技によって、丹念に観客に見せていく。通常の人間ドラマと同じように、つらい境遇に同情させ、キャラクターに感情移入させながら。そして、その先にあるのが凶悪犯罪だからこそ、危険な作品だと言われるのだ。

 実際の近年の銃乱射事件は、不満をためた白人男性が加害者の場合が多く、その凶行の根底に人種差別意識が指摘されることも少なくない。だが劇中でアーサーは、『タクシードライバー』の主人公であるトラヴィス同様に、政治的な意図がないことを述べている。それは、もともとジョーカーというキャラクターに人種差別的要素が希薄だという事情もあるだろう。その反面、本作が到達点とするジョーカーのキャラクターには、疑問を感じる点もある。バットマンと渡り合うことになるジョーカーのイメージは、狂気にさいなまれているとはいえ、抜け目のない非常に優秀な男ではないのか。何をやってもうまくいかず、ユーモアのセンスもないアーサーには、そんなカリスマ的な存在になることなど到底無理なのではと感じてしまう。

 とはいえ一方では、何の特別な能力も持たない平凡な人間が格差社会の犠牲になっていくことで暴力的になっていき、そこか得られる恍惚感だけが寄りどころとなっていくという構図というのは、多くの人々が乱射事件やSNSなどで目にしている、近年最も顕著で身近な社会問題である。そこには、いつ身近な人や自分自身がそうなってしまうか分からない恐怖も存在している。

 ヒーローが時代によって様変わりするように、悪のかたちも変化する。いま最もおそろしいのは、むしろ優れた能力を持たない、愚鈍な悪なのではないか。そして同時に、それを作り上げている酷薄な社会ではないのか。この、きわめて現代的な問題をすくい上げているからこそ、本作は現代人にとって無視できない存在になっているし、内容に戦慄させられるのである。

 そして、さらに本作をただならぬものにしているのは、やはり“二面性”である。虐げられ続けた者が常軌を失っていくという流れは、一見図式的で単純すぎるように思えてしまうところもあるし、本作には実際にそういった批判も多い。しかし、シーンを追っていくと、そのような筋書きを超えた複雑な印象をも与えられるのだ。善良だと思われた人間がジョーカーになっていくことの悲しさと恍惚、犯行に至る心情への是非、そして物語自体の虚実と、この映画はいつでも二つの顔を持ち、それを見る角度によっては批判もできるし、逆に賞賛することもできる。このような曖昧さこそ、『タクシードライバー』などの作品が表現していたリアリズムである。

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