【ネタバレあり】『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』がヒーロー映画最先端となった理由

 ここで、ちょっと変わった例を出したい。かつて、日本映画の知性派・増村保造監督は、日本の時代劇TVシリーズ『遠山の金さん』に苦言を呈したことがある。『遠山の金さん』といえば、罪人を裁く江戸町奉行である遠山金四郎が、遊び人“金さん”として、密かに江戸の町に繰り出して捜査をするという物語だ。これもある意味で“ヒーロー作品”の一種である。

 このTVシリーズの一部について、劇中で金さんが町に出るまでに苦労する流れが省略されてしまう場合が多いことを、作品の味を活かしきっていないと増村監督は指摘した。いかに奉行所の見張りを突破して遊び人になるのかという描写は、たしかに面倒くさい。しかし、それが面倒くさいからこそ、その部分は面白くなり得る可能性があるというのである。

 MCUの『スパイダーマン』シリーズで、前作から引き続き監督を担当しているジョン・ワッツは、そのあたりをしっかりと踏襲して、そこで起こる面倒なあれこれをコメディとしても、ドラマを転がす要素としても活かすことに成功している。

 また、様々な人種や文化が背景にあるクラスメートの面々や、今回ヒロインの位置付けとなるMJが、クラスの誰にでも人気があるタイプではなく、辛辣で率直なものいいをする“ダーク”な面を持っているところなど、より現代的で多様性が描かれた作品にもなっているのが特徴だ。

 とはいえ、ここまで述べたことは前作において、すでにある程度行われていた部分でもある。本作では、前作で確立された娯楽表現をベースに、さらなる新しいテーマを登場させる。

 前作で描かれてきたように、両親を亡くし、メイおばさん(マリサ・トメイ)と暮らしているピーターは、アイアンマンことトニー・スタークを慕い、開発者としてもヒーローとしても憧れていた。そんなスタークの代わりのような存在になることを周囲は望んでいたが、自分はその器ではないということをピーター自身は分かっていた。

 そして今回新たに立ちふさがる敵は、ピーターには足りない部分、経験や知恵、狡猾さを持った大人の男だ。ピーターは敵の張り巡らした、あの手この手の策略に対応できず、どうあがいても先手を取られてしまうのだ。この敵を乗り越えることのできないピーターが、トニー・スタークに追いつくことなど夢のまた夢であろう。

 ピーターの戦い方は正々堂々、正面から敵と対峙し、その場で技を繰り出すことがせいぜいなのに対し、敵は数重にも張り巡らせた罠を用意し、頭脳的にピーターを陥れようとする。さらに、虚偽の情報を撒き散らして人間をコントロールするという、ユニークな技術を持っている。「人は信じたいものを信じる」とうそぶくように、大勢の世論を味方につけようともするのである。

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