『アリータ:バトル・エンジェル』なぜ世界的なヒットに? 原作を解釈し直した“愛の物語”

 CG表現の拙さによって不自然な違和感が発生する現象は、いままで「不気味の谷」と表現されてきたが、ここまでCG技術が発達してくると、逆に不自然さが自然を超えた、より進歩的な美というものを表現し始めたように感じられる。しかしそこに、『攻殻機動隊』でいうところの“ゴースト”、つまり魂を感じさせるには、いまのところ人間の演技が有効であることはたしかだ。ここでは、人間と機械が互いに協力することによって、本作のアクション描写同様に、より高次元の美しさと、それを支える説得力を作り出しているのである。

 その先には、人間が役を演じるということはどういうことなのかという、哲学的なテーマが存在する。本作は、サイボーグという要素によって、それを考えさせるところまで到達しているように感じられる。

 かつて『バットマン フォーエヴァー』(1995年)では、CGで表現されたバットマンが高いビルから降り立つシーンが問題となった。「このままCGアニメーションが発達すれば、俳優はいらなくなってしまうのではないか」という、俳優の立場からの懸念がぶつけられたのだ。しかし本作の主人公は、完全なアニメーションではない、また生身の人間でもない新しい存在である。その意味では、現在問題になっているAI(人工知能)との、ネガティブではない付き合い方や可能性が、本作には内在しているように感じられる。

 もちろん、本作は映画におけるCG使用の草分け的存在でもあるジェームズ・キャメロンの意図する革新性が反映されていることは間違いない。そこにさらに、『プラネット・テラー in グラインドハウス』で、武器を肉体の一部にした女性キャラクターの描写を行い、『シン・シティ』(2005年)でCGアニメーションと実写との境界を探るような実験的な試みを見せたロバート・ロドリゲス監督の作家性も活きている。

 さて、これらの技術を使って新しい表現に到達するのはいいとして、主人公の内面をどう描いているかということが、本作においては問題になるだろう。ボーイフレンドのピンチを救うため、バトルを繰り広げながらも助けに向かうようなスーパーガールとして描かれるアリータは、徹底して愛情深い人物として表現されている。原作の要素を組み直して娯楽映画のサイズに合わせるため、ここで本作の脚本は、全体を一つの“愛の物語”として解釈し直している。

 特筆すべきなのは、アリータがボーイフレンドのために、自分の心臓をつかみ出すシーンだ。自己犠牲こそが愛情の証ならば、本物のハートを相手に差し出すことこそが、最大級の恋愛描写ではないだろうか。そしてアリータは、毅然と「わたし、半端はやらない」と言い放つ。このサイボーグを登場させているからこそ可能な、凄まじい愛情表現の描写は、下手な恋愛映画が到底太刀打ちできないほど、愛の本質をそのまま映像化した根源的なパワーがある。

 そして、アリータがボーイフレンドの想いを胸に秘めながらも、涙を文字通り“断ち切って”、自分の戦いに向かう姿は、あまりに凛々しい。感情を、愛情を、映像そのものが語る。本作が広く理解されるのは、この誰もが理解できる強固な表現が存在するからであろう。

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