センセーショナルで深い意義があるオムニバス映画に 『21世紀の女の子』が意味するもの

 ここで、唐田えりか、竹内ももこ、詩歩の3人によって演じられるのはドラマではなく、山戸監督によって綴られた“詩”と呼ぶにはあまりに扇動的で、世の“女の子”に決起を促す、まさしく“檄文”といえるような熱いメッセージを、お花畑のなかで叫ばせるというような内容だった。その狂熱の渦のなかで出てきたのが、「女の子だけが本当の映画を撮れる」という言葉だ。

 これは、アジテーションとも芸術運動ともいえよう。かつて前衛的なアーティストたちが「印象派」、「シュルレアリスム」、「ポップアート」など、新しいムーブメントが開花するとき、それをさらに前進させようという運動が芸術界にあった。山戸監督は、詩人のアンドレ・ブルトンが20世紀の新しい文化の出発として「シュルレアリスム宣言」を行ったように、旗振り役として映画における21世紀の「女の子宣言」を行ったのである。

 日本で制作された映画のなかで、女性監督によるものは全体の約3%といわれる。世界的にもそうだが、女性は映画のなかでは出演者やスタッフとしては使われてきたものの、映画監督として多くの作品を撮った女性は、きわめて少ない。

 マヤ・デレン、ジェーン・カンピオン、カトリーヌ・ブレイヤ、キャスリン・ビグロー、パティ・ジェンキンス、そしてもちろん山戸結希など、優れた監督の作品を数々観ると、その状況を生んだ原因は能力によるものではないことが分かる。障壁になっているのは、社会における女性差別の構造であり、業界のなかの偏見である。そこであえて辛い思いをしてまで、狭い門をくぐり闘おうとチャレンジする女性が減っていくのは自然なことかもしれない。山戸監督がやろうとしているのは、そんな現状を動かし、女性が男性と同じ程度に映画を撮っていける環境を作るということだろう。

 しかし、本作の監督たちは20代、30代の大人の女性だ。映画監督として若手とはいえ、なぜ本作は“女性”ではなく、あえて“女の子”を掲げるのだろうか。

 その点は、このように推察できる。ことに日本において、女性は封建的な価値観の犠牲になる場合が多い。子どもを産み育てるという役を引き受けることで、職によっては復帰が難しく、選択肢が限定されてしまうケースも少なくない。目一杯に学生時代を楽しもうとしているパワフルな女学生の姿を見かけると、この社会で自由に楽しめるのは今しかないという、ある種の諦念を彼女たちから逆説的に感じてしまうところがある。

 つまり封建的な社会において、自由な力を持っている女性は“女の子”だけなのだ。であれば、この社会で女性が自由でいるためには、どうすればいいのか。それは、“女の子”を卒業しなければいいのである。日本の多くの女性たちが、既存のシステムや男性優位の価値観から外れて、男性たちに望まれた役割を蹴っ飛ばして、いつまでも女の子であろうとし始めたならば、これはもう“革命”である。だから山戸監督は、お花畑の女の子たちを象徴として描いたのであろう。そして彼女たち女の子によって撮られる映画は、いままで優位性にあぐらをかいてきた男性には撮ることのできない真実が含まれるかもしれない。“本当の映画”を撮れるのは、その意味では女の子だけなのである。

 ここで、女性監督たちがそれぞれの感性で自由に撮った作品群が並べられたことに、突如として意味が発生する。短編の一つが、それほどの効果を発揮するという事実に驚きを隠せない。いまだかつて、これほどセンセーショナルで、それ自体に深い意義があるオムニバス映画があっただろうか。

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