『高嶺の花』峯田和伸はなぜ石原さとみを許したのか? 小日向文世が囁く“深い呪い”と考える

 思えば、市松はいつも恐ろしいくらいの断定形で、自説を教え込ませる。正解は何であって、間違いはどのようなものであるのかといったことを圧倒的な威厳をもって説き伏せる。そうした教えに対して、ももは強い言葉で言い返すこともあるが、実際には、もものいかなる反論や解釈の余地も与えない。華道家である人間は“こうあらねばならない”という模範を叩き込ませ、もも自身も正しいありかたを模索し続け、結果自身を苦しめていった。

 反面、直人は全くといって良いくらいに、頭ごなしに押し付けることもなければ、真っ向から何かを否定することもしない。第1話で、“喜怒哀楽”の話をももたちがいる前でとうとうと語ったときや、素行不良の少年・宗太(舘秀々輝)に携帯で言葉を伝えるときでも、その言葉をあくまで、人生を良くするための“ヒント”として響かせようとする。“ヒント”に過ぎず、市松のような“教義”ではないのだ。その言葉を受けて、ももや宗太は自分なりに頭で考え、自分なりの解釈を与える。こうして初めて、“こういう考え方もできるのね”と思えるようになっていく(はず)。直人はももに対して絶対に“正解”を授けないし、“正解”を追求させることもない。

 例えば、第4話。自分は浮気をしないと断言した直人。その理由として、「相手にされたら嫌なことをどうして自分はできます? 愛しているのに」と言う。その時のももの表情は、一瞬何かに動かされたかのように見えた。ところが、直人は、この「相手にされたら嫌なことはするべきでない」という考えを、ももに押し付けるようなことは決してしなかった。むしろ、ももの残忍な計画を、ご丁寧に、一度出した婚姻届を役所から戻してまでして肯定したのだ。直人が華道の世界についてほとんど知識を持たないからというのもあるかもしれない。ただ、このエピソードに限らず、自説はあくまで自説であって、直人にできることはあくまで、「こんな風に自分は考えます。それをどう受け止め、考えるかはあなた次第だ」とでも言うかのような、一つの提案にとどまる。解釈の余地を残し、判断を委ねるまでがするべきことだという、この直人のスタンスこそが、市松の教義性との違いとして現れる。

 さて、この直人の緩やかなスタンスと、市松の呪縛的なスタンスの違いはどこからくるものなのか。それは、市松はできるだけ物事を“拒絶”しにかかるのに対し、直人は基本的に “受容”することにある。市松は、第2話では愛をお金に喩えたうえで、「芸術家に愛などいらん」と言い切って見せ、第3話では「才能ある華道家なら、色恋などという俗なものに溺れるな」と喝破した。必要のないものは、極力排除するべきだと訴える。市松は、失ったもう1人の自分を取り戻すようにと言う。ただ、それとはまた別の話なのであろうが、ももが自分自身に目を向けて、受容させることに関しては、結果としてそれを阻んでいるように見えなくもない。

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