ひとりの少年を通して世界と出会う 『泳ぎすぎた夜』が思い出させる“自由な冒険心”

 青森に住む人々と限られたスタッフによって製作されたこの映画のつくりは、非常にミニマルだ。鳳羅くんのたった24時間の物語が、その約18分の1である79分というひとときに凝縮されている。全編を通してセリフは排され、劇伴もほとんど用いられないため、鳳羅くんが鼻をすする音や雪を踏みしめる音までがみずみずしく伝わってくる。彼が耳にしているであろう世界の音を、一緒に聴くことができるのだ。であるからこそ、ここぞというときに響くヴィヴァルディの「春」が効果的。基本的に据え置きで撮影された、スタンダードサイズのフレームの中におさめられるユニークな鳳羅くんの姿も相まって、サイレント喜劇のように見えてくる。

 このサイズの画面は、彼が父を見送った、そして彼が電車の中から覗いていた、「窓」のようにも思えてくる。この小さな窓と、その向こう側の鳳羅くんを通して、私たちは新しい世界と出会う。そしてこの小さな窓にたびたび映し出される彼の愛くるしい寝顔。ラストでその寝顔を見つめる父の姿からは、清水宏監督作『母の旅路』(1958)での佐野周二の「子どもは可愛いだけで、じゅうぶん親孝行なんだ」という言葉がどこかから聴こえてくる気がする。

 セリフが排されているからこそ、互いに向け合うそのまなざしや仕草は、より豊かに愛情を物語る。しかし彼らの中に見出す感情は、観客によって千差万別だろう。それらは彼らの感情であるのと同時に、観客自身が自分のうちに見つけ出した感情でもあるのだ。

 さらに本作が面白いのは、言葉による説明が一切なされないために、ここまで書いてきたこととは、彼らの関係性をまったく別のものにも見ることができるということ。映画はときに世界の見方を教えてくれるが、本作もまた、新しい世界の見方を教えてくれる。雪国が舞台という前情報だけで、できれば冬に観たかったなどと思っていたが、観終わったいま、この慌ただしくも胸のときめきが抑えられない新生活シーズンに公開されたことを嬉しく思う。急がず焦らず、もっとリラックスしてもいいのかもしれない。鳳羅くんはその自由な足取りで、そんな世界の新しい見方を教えてくれる。

■折田侑駿
映画ライター。1990年生まれ。オムニバス長編映画『スクラップスクラッパー』などに役者として出演。最も好きな監督は、増村保造。

■公開情報
『泳ぎすぎた夜』
シアター・イメージフォーラムほかにて公開中
監督:五十嵐耕平、ダミアン・マニヴェル
製作:ダミアン・マニベル、マルタン・ベルティエ、大木真琴
出演:古川鳳羅、古川蛍姫、古川知里、古川孝、工藤雄志
(c)2017 MLD Films / NOBO LLC / SHELLAC SUD
公式サイト:http://oyogisugitayoru.com/

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