ベルイマン映画に重なる“交わらない視線” 『ラブレス』が提示する、映画の残酷さと凄絶さ

荻野洋一の『ラブレス』評

 ベルイマン映画の苛酷さとは、一組の男女が面と向かって対峙(いや、必ずしも男女でなくてもいい、それが『第七の封印』のように十字軍騎士と死神のチェス勝負でもいい)し、それがカットバックしているにもかかわらず、メロドラマとして成立することがあらかじめ禁じられている点にある。カットバックとは交わる視線であるはずなのに、たがいの視線がまるで平行にどこまでも交わらないかのようだ。『ラブレス』の離婚訴訟中の夫婦もベルイマン的な平行視線の中にいる。この冷酷な平行ぶりを目のあたりにして、私たち観客は叫びたくなる。「いったいこの連中は、はたして人間なのか?」と。

 これに比して、民間ボランティアの児童捜索隊の、無私の集中ぶりは何なのだろう? ここにこそ人間の善意の物言わぬ実現がある、ということだろうか? これほど冷酷で凄絶な悲劇はないにもかかわらず、捜索隊が手つかずの森の中で数百メートルにおよぶ横一列を形成して進んでいくカットが美しいのである。捜索スタッフの女性がトランシーバーで一同に「今から名前を呼びます」と告知して、森中に轟く大声で「アー、リェーク、セイ!」と失踪少年の名前を呼ぶ、森の画と叫び声のアンサンブルは、ある種、禁忌的なまでに美しい。いや、この局面は美に耽溺してよい場面ではないと、観客はみずからを律しつつ、それでも美に飲みこまざるを得ないだろう。また、それこそが映画芸術というものの、人間道徳の域を超越した、酷薄にして凄絶な絶対価値なのである。

 2000年生まれの男の子が2012年秋に蒸発した。ラストで、ロシアによるクリミア併合に伴うウクライナ内戦勃発のテレビニュースが流れる。それはもちろんロシア側からの一方的な報道内容にすぎず、ドネツク市内の民間人に対するウクナイナ政府軍の蛮行を告発している。登場人物たちは全員、そのニュースを物言わぬまま甘受する。それは2015年の冬のことだから、映画の冒頭から3年の歳月が経過していることになる。アレクセイ少年の生死はここでは書くべきではあるまい。ただ、情報提供を求める電柱ポスターが古びてボロボロになっている。そして、森で少年が放り投げたビニール紐は依然として木の枝ではためいている。つまり、映画のみが時間経過を真に表現できるということだ。映画というものの残酷さと凄絶さには、この時間の観念も含まれているのだ。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『ラブレス』
新宿バルト9、ヒューマントラストシネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開中
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
共同脚本:オレグ・ネギン
出演:マルヤーナ・スピヴァク、アレクセイ・ロズィン
2017/ロシア、フランス、ドイツ、ベルギー映画/ロシア語/シネスコ/127分/字幕翻訳:佐藤恵子/原題:Nelyubov/英題:Loveless/R15+
提供:クロックワークス、ニューセレクト、STAR CHANNEL
配給:クロックワークス、アルバトロス・フィルム、STAR CHANNEL MOVIES
(c)2017 NON-STOP PRODUCTIONS – WHY NOT PRODUCTIONS
公式サイト:http://loveless-movie.jp/

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる