菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第16回

菊地成孔の『密偵』評:「日帝時代」を描くエンタメ作が凄い勢いで進化している現在って?

作品自体のテイスト&ストーリーは

(以下、公開中につきネタバレおおっぴらなので注意) 

 作品の視界、つまり美術、衣装、照明は、アメリカ映画の、いわゆるローリング・トゥエンティものと同じである。服装、車、重火器、建築物、路面のデザインは既にインターナショナル化されており、日本の大正ロマンものとも相同的である。

 ご存知の通り、アメリカではギャングと禁酒法とジャズで踊る20年代から、大恐慌の30年代、2次大戦の40年代、ミッドセンチュリー文化のフィフティーズ(以下略)と、デイケイドのキャラクターは手垢にまみれているが、その風俗デザインが北東アジアにまで及んでいたことが映画的な楽しさに満ち、かなりのハイバジェットであろう、CG抜きの完全再現に成功している本作においては眼福とさえ言えるだろう。

 そうしたハリウッド感とも言える豪華な視界を舞台に、脚本、特にスタートから中盤の京城行き列車内でのサスペンスまでは、今や「改めてこれが韓流」とも言うべき精緻さで描かれ、「二重スパイ物」という、登場人物の信頼関係が極限まで薄く設定されるジャンルを、堂々と乗りこなし、痛快なまでに強烈な緊張感をコンマ1秒の間段もなく維持させることで、「バルカン超特急」「見知らぬ乗客」といったヒッチコック・クラシックスの系譜にあると言っても過言ではない。

主役は狭く設定すれば2人

 反日活動団体「義烈団」のメンバーであるコン・ユ(現在、ドラマでも映画でも乗りに乗っている彼は、話題になった韓流ゾンビ映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(参考:菊地成孔の『新感染 ファイナル・エクスプレス』評:国土が日本の半分の国。での「特急内ゾンビ映画」その息苦しいまでの息苦しさと上品な斬新さ)と並び、奇しくも「極端に緊迫した列車内」を舞台にした作品に連投する事となったが、設定はあらゆる意味で両極端な2作の「列車内での演技/アクションのクオリティ」は優劣がつけられないほど高い)、そして彼に誘われる形で、日本警察との二重スパイになってゆくソン・ガンホである(義烈団のトップであり、カリスマの自己愛、行動力、扇動性、そして無能性や天然のユーモアまでを高度に演じきったイ・ビョンホンは、作中の登場時間も鑑みるに、特別出演に近い)。

 特に、韓国人でありながら日帝の狗であるソン・ガンホの日本語は、役作りの結果か偶然か、滑稽さや稚拙さを感じさせぬシリアスさでもどかしく押し殺され、たった数年で「カタコト問題(参考:菊地成孔の『隻眼の虎』評:おそらく同じソフトによって『レヴェナント』のヒグマと全く同じ動きをする朝鮮虎)をクリアした韓国映画界全体に驚きを禁じえない。

しかし、映画としての完成度は

 知的なサスペンスとアクションが有機的にリンクするピーク(列車内)までと、ピーク後のトーン激変が評価基準となるだろう。

 筆者のジャッジでは、列車が京城に到着した、その駅出口で、凄まじいアクションを繰り広げながら、結局一網打尽になってしまう、という所まで水平に一貫したゲーム的な知性が、一度完全に放棄され、韓国映画における、一種のワイルドなサーヴィスとも言える、「日帝による残虐な拷問シーン(ヒーローとヒロイン、つまり最美男と最美女に最残虐がなされる)」が連続し、プロレスの悪役の如き、お約束の悪意を煽る展開は、残念ながら残念だったとしか言いようがない。

もしそれが、知的に制御されているというのならば

 シンプルにいって、途中でエモくなってしまうのは、いかなる理由(本作では「日帝の残虐さを描くことで、観客の憎悪を煽る」という目的)によるものであっても破綻=失敗と映ってしまう。

 リアルなガチのナチスを描くか、漫画の悪役としてのアンリアルなナチスを描くのか、これは我らが鶴見辰吾の演技力のせいではない、「21世紀の日帝時代エンタメ大作」が、どのような新時代のバランスをとるのか、そこがハリウッド型に成熟した韓国映画に問われるポイントである。

 そしてそれは、そっくりそのまま「朝鮮半島が、結局未だに民族統一されていない」という事実に対するスタンスの取り方と重なってしまう。スタート時のトーンとマナーに合わせるならば、ここで自虐性や自己嫌悪などのエモさは社会的なメッセージという嘔吐となる。前述の、「知的エンタメなのに、ナチスがリアル」というのも、同じく嘔吐となる。

 「鶴見辰吾=日本警察トップ暗殺」という、本来ならば作品の山場となるシーンが、「ボレロ」を使った、寒いユーモア感覚と相まって、腰抜けた印象になってしまい、投獄されたコン・ユの無念、一瞬、裏切ったかと思わせながら、観客の思惑通りに仁義を果たすソン・ガンホの俠気と罪悪感、といった激しいエモーションとの交差が、後半に向かってどんどん座りが悪くなってしまうのは、嘔吐によるものである、と筆者は評価する。

 そして、こうした点において、エンタメとしてのクール統一だったのが『暗殺』であり、独特の美学に染め切ったのが『お嬢さん』であり、少なくとも作品が嘔吐はしていない。

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