ミヒャ・レビンスキー監督インタビュー

事なかれ主義は果たして“罪”なのか? スイスから日本へ、『まともな男』が問いかけるもの

「僕はいたって、まともな…人間さ」

 映画の冒頭、主人公の中年会社員トーマスは、インタビュアーに対して苦々しい笑みを浮かべながらそう応える。恐らくそれはトーマスの偽らざる本音であり、実際に彼は“まともな人間”と呼んで差し支えない人物だったはずだ。しかし、彼を見る世間の目はどうやら冷たい。

 きっかけは些細なことだった。倦怠期が続く妻と反抗期まっただ中の娘、そして成り行きから上司の娘であるザラを連れて、トーマスはスキー旅行へと向かう。コテージに到着すると、娘たちは地元の青年たちが催すパーティーに参加したいと言い始め、トーマスは押し切られる形でしぶしぶ許可を出すーーそれが過ちのはじまりだった。夜が更けて、トーマスがパーティー会場に娘たちを迎えに行くと、ザラは街の片隅でうずくまり、セヴェリンという青年にレイプされたと訴える。トーマスは保護者として、できる限り穏便にことを済ませようと小さな嘘を重ねていくのだが、その結果として、取り返しのつかない混沌へと巻き込まれていく……。

 壮麗な雪山を舞台としたこの小さなスイス映画は、複雑な人間関係の中で誰しもが抱きうる感情とその罪を、巧みな脚本と静かな演出で鮮やかに描き出し、国内で大きな喝采を浴びた。監督を務めたのは、ミヒャ・レビンスキー。フリーランスのジャーナリスト、編集者、音楽家としてキャリアをスタートさせた彼は、2002年にテレビ映画『Weihnachten』で脚本家として注目を集め、2008年に監督を務めた初の長編作品『Der Freund』は、アカデミー賞にも出品された。本作『まともな男』は、2009年の『Will You Marry Us?』に続く、三作目の長編監督作となる。この度、初来日を果たしたレビンスキー監督は、本作を手がけたきっかけを次のように語る。

「僕らが普段の生活の中で、なにかの事件の犯人になったり、被害者になったりする可能性は極めて低いものだと思う。しかし、僕らがまったく罪のない善良な人間かというと、そうとは言い切れないと思うんだ。たとえば僕らは、世の中が不公平であることを知っている。貧困があることも知っている。悪意のある出来事に、ただ泣き寝入りするしかない人々がいることも知っている。だけど、そのことに対して何も行動を起こさなかったり、もしくは行動を起こしても無駄だと考えて、波風を立てないようにやり過ごそうとしたりする。本作の主人公であるトーマスは、そんな我々自身の姿でもあるんだ。彼のように、最悪の事態に巻き込まれたら、果たして僕自身はどんな行動が取れるだろうか? そういう考えに取り憑かれて、僕はこの映画を作り始めたんだ」

 トーマスは、ありていに言えば“人の良い男”だ。妻との関係性は良好とは言えないが、かといって冷たく当たるわけではない。その意思を尊重しようと、彼なりに配慮をしている。自立心が芽生えつつある娘には、邪険に扱われながらも大事にし、預かった上司の娘にも公平に接しようと努める。妻子を持つ父親の苦労というものは、どの国でもそう変わらないものだと、その姿から教えてくれる。

「特に日本の男性は、トーマスという人物に共感を抱くみたいだね。いち早くこの映画を観た方から、そういう意見をたくさん聞いたよ。もしかしたら、スイスと日本の文化的な背景には共通する部分があるのかもしれない。ともあれ、本作の描こうとするテーマが言語や国境を越えて理解されたのは本当に嬉しいし、こうして日本で公開されたことには感謝するばかりだよ」

 もちろん、本作は家庭に翻弄される男性たちの共感を誘うだけの物語ではない。その根底にあるのは不条理なブラック・ユーモアであり、人によっては怒りや恐怖を感じるだろう。トーマスに訪れる不幸の連鎖は、意図せずとも彼自身が引き起こしたことでもあり、許し難くも感じる。いつしか我々は、トーマスという人物の一挙一動から目が離せなくなる。

「脚本を書き進める中で気をつけたのは、とにかく登場人物に不自然な行動をさせないこと。物語を進めるために必要な行動はあるのだけれど、絶対に強引な展開にはしないように細心の注意を払ったんだ。役者陣の演技が素晴らしく、とてもナチュラルだったこともあって、僕らが脚本の中で意図して作った流れは周到に隠すことができたと思う。当初はブラック・コメディとしてもっと笑える映画にしようとも考えていたんだけれど、結果としてシリアスな路線に落ち着いたんだ」

 可能な限り作為性を抑え、リアリティーを重視した作風にしたことによって、本作には多様な解釈が生まれた。そして、そこにこそ本作の真価があったのではないかと、レビンスキー監督は分析している。

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