荻野洋一の『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』評:男だって水原希子を目指すべきだ 

荻野洋一の『奥田民生~』評

 私たち観客は、“出会う男すべて狂わせるガール” である水原希子に対し、頭(こうべ)を垂れて、この合言葉を言わなければならない。「The exercise was beneficial, Mademoiselle.(練習は有益でした)」と。この女優は最近ネット上で炎上の対象となった。しかし、この映画の主人公(妻夫木聡)が所属するライフスタイル雑誌「マレ」編集部の編集者一同が、炎上を起こして狼狽する妻夫木聡をなぐさめて「放っとけば」と(まさに)放言する。炎上を放っておこう。陰口を放っておこう。もてあそびを、退屈を、保守的なもの保身的なもののすべてを、どうでもいい中間項を放っておこう。つまり「美しい国、日本」なる馬鹿げたバルーンを放っておこう。そして、うんとワガママに、極端に、水原希子というハイブリッドな「日本の女優」を目指そう。男だって水原希子を目指すべきだ。

 「練習は有益でした」。これはフリッツ・ラング監督が1955年に作った盗賊映画『ムーンフリート』の中で没落貴族の少年が、慕っている盗賊の頭領に言う有名なセリフで、ヌーヴェルヴァーグの温床となったフランスの高名な映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」の1980年代の編集長セルジュ・ダネーが、自身の単行本のタイトルに採用したフレーズである(L'exercice a été profitable, Monsieur.)。本作『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』の主人公は奥田民生に私淑し、「奥田民生のようになりたい」と願う。では奥田のようになるかというと、むしろ映画の中で彼はどこまでも奥田から遠ざかっていく。彼が選ぶ実際の師匠は水原希子である。そして少しばかり編集長の松尾スズキ、人気コラムニストの安藤サクラも師匠とする。ビッチな浮気性の水原希子に翻弄され、揺さぶられ、座礁させられ、廃人寸前にまで追いつめられる。でも、追いつめられて「男をみがく」。

 『モテキ』『恋の渦』『バクマン。』『SCOOP!』の大根仁監督作品は、つねに軽薄にして俗悪だった。うわすべりしていき、登場人物の内面には最低限しか立ち入らない。登場人物はつねに類型であり、パターンの一部のように見える。『SCOOP!』主人公の福山雅治のように、セクハラ親父が居直っているようなところさえある。しかし、軽薄さと俗悪さの果ての、向こう側の、にぶく底光りする光をも照射しているのだ。軽薄で俗悪で、トレンディでノリだけで、その場限りで棲息する夜光虫の、孤独と憂鬱と無我夢中と恍惚がある。24時間営業の「ブラック企業的自分」を仮構して、このくだらない社会にファックユーをぶつぶつとつぶやき続けている。大根映画は田口トモロヲ本人よりも田口トモロヲ的、ケラリーノ・サンドロヴィッチ本人よりもKERA的、三浦大輔本人よりもポツドール的である。

 じつはこの映画は、はじめの30分で終わってしまう。それまでに物語を語り終えてしまうのだ。あとは余生がある。恋愛の余生、民生への憧憬の余生、「ブラック企業的自分」の余生がある。「ごめんごめんごめんごめんごめん」と正確に5回、彼は彼女に謝罪する。しかし彼女はその聴き心地のいい謝罪の音を欲しているわけではない。彼女はただ単に変わり身が早く、猫の目の感情の持ち主であって、そのつどそのつど自分に忠実なだけだ。先日亡くなったばかりのフランスの女優ミレイユ・ダルク(ゴダール『ウィークエンド』の主演女優)のためにセルジュ・ゲンスブールが作曲した「浮気女はそこにいる(La cavaleuse)」という、可愛らしいピアノのカデンツァを有するじつに美しい楽曲がある。

 「浮気女はそこにいる(La cavaleuse)」。浮気女を責めたってしかたがない。これは愛の破壊心みたいなもので、畏怖と崇拝の対象である。本作の水原希子は破壊神、いわば「炎上神」である。ミレイユ・ダルクなのである。水原希子の口元に「セルジュ・ゲンスブールそっくりの」フランス男が歩きながらジタンを持っていき、一吸いさせるシーンがある。あれではっきりした。水原希子は「浮気女はそこにいる(La cavaleuse)」のミレイユ・ダルクである。しょせんこの登場人物は男の描いた破滅的な幻想にすぎない、と誰もがそういう冷ややかな感想を抱くかと思う。でもこの幻想装置による「練習」が「有益」だったなら、それでいいではないか。彼女が彼にとって都合のいい幻想だったのか、あるいは実在しない胡蝶だったのか、一炊の夢だったのか、それは結論がない。あとは何年か経って「自分はここまで来てしまったのか」と呆然となろうが、「おたがい元気にやっているならそれでいいじゃないか」と納得しようが、破滅して酒びたりになろうが、いずれもしかたのないことである。

 ドイツ・ブンデスリーガのサッカークラブ、シャルケ04のファンらしい人気コラムニスト、安藤サクラが15匹の猫の女帝を営みつつ、彼女が飼い猫のリーダー黒猫にドログバと名づけて24時間営業の「ブラック企業的自分」の権化と化しているのは、じつは「炎上神」水原希子以上に神々しいのだが、大根映画というのはつねにそういう次回向けダークホースのような存在を振りまいて、主人公を出し抜くのである。『モテキ』『恋の渦』『バクマン。』『SCOOP!』と、大根仁は意外と泥くさい恋愛映画ばかり作っているが、それらはハッピーエンディングも家庭の幸福も目指さない。「結局、人間はひとりぼっち」(小津安二郎監督『秋刀魚の味』の東野英治郎のセリフ)なのだということを、仕事中毒という名の「地獄へ道づれ」の形を借りて、飽かずに繰り返している。『バクマン。』でアイドル少女の小松菜奈が、過労で病院送りとなった漫画家の主人公(佐藤健)をお見舞いして別れ際に振り返って述べるセリフ「もう待てないわ。先に行ってるね」というのは、「地獄へ先に行ってるぞ」というサインである。その先に何があるのか。大根映画の主人公たちの末路はおそらく、異臭騒ぎで発見される黒胆汁まみれの屍体であろう。それでも彼らは「地獄」へ、進んで歩を進める。黒胆汁まみれの屍体だってしかたがない、という覚悟をどう決めるか。だから大根映画というのはつねに大根映画それじたいのリメイクである。全部を繋げて1本のフィルムであるかもしれない。

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