人は狂わされながら生きていくしかないーー『民生ボーイと狂わせガール』が観客に問いかけるもの

小野寺系の『民生ボーイと狂わせガール』評

 本作では、コーロキ以外にも、「イタい」人間が続々登場する。強烈なのは、やはりリリー・フランキーが演じたサブカルライターのキャラクターであろう。「村上春樹や又吉直樹などの"著名"な人物に原稿を書いてもらいたい」という、あかりの要望を叶えようとするコーロキだったが、このライターが強引に、勝手に頼んでもいない原稿を書いて押し付けようとしてくる。この原稿の内容というのが、ここでとくに必要とされていない「渋谷系の終焉」のようなテーマを「ユーモア」を交えつつ内省的に表現したもので、当然コーロキに掲載を断られると、腹いせとしてSNSであることないこと、雑誌の悪口を書きまくり、炎上を引き起こそうとするなど、時代に対応できずに精神状態が破綻した人物である。

 また、安藤サクラが演じるライターは、現実の至るところに「ボーイズ・ラブ」の関係を目ざとく見いだす妄想をしており、打ち合わせ中に突然奇声を発する奇人として描かれる。大幅に原稿を遅らせ、編集者が深夜まで会社で待機しているにも関わらず、ツイッターでつぶやいている。

 彼らフリーライターのキャラクターは、ものすごく嫌なリアリティを持っている。これはライターである原作者の体験が活かされているのだろう。個人的にも、描かれたほとんどが身につまされるものだったので、職業映画として妥当なものになっているように思われる。

 本作で「民生ボーイ」と「狂わせガール」が表現しようとしたものとは、何だったのだろうか。オシャレなライフスタイル誌という、流行に左右されるきらびやかな世界のなかで、編集部の面々やライターたちの狂気に四苦八苦しながら、精一杯に奮闘するコーロキにとって重要だったのは、「自分を見失わない」という信念だったはずだ。その象徴となるものが「奥田民生」である。

 しかし現実では、コーロキ自身の内面やセンスだけで価値を生み出せるほど、業界は甘いものではなかったようだ。他人の言葉に引っ張られたり、自分自身が良いと思えないようなブームに乗っかり、実体のつかめない読者の要望通りに妥協しながら仕事をこなすことで生き残ったということが分かる、別人のようになった終盤のコーロキの涙が印象的だ。コーロキが狂い、男たちが常軌を逸して「狂わせガール」に群がる姿というのは、恋愛描写を超えた、流行の熱に浮かされる業界や社会の構造の写し絵であったように思える。

 しかしこの映画を観ていると、同時に「自分自身」というような確固たるものは、果たして存在しているのだろうかという気もしてくる。「なりたいボーイ」にとっての「奥田民生」が、実像ではない理想のイメージでしかないように、何者にも侵されない存在というのはあり得ないはずだ。人間は周囲の環境とのつながりによって「自分」を確立する。この社会に生きる人は多かれ少なかれ、他者と関わり、流行と関わり、狂わされながら生きていくしかないのだ。そして、狂うことが生きる力にもなるのである。「民生」と「狂わせガール」の間でもがく主人公の姿は、観客一人ひとりの姿でもある。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。

■公開情報
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』
全国東宝系にて公開中
原作:渋谷直角「奥田民生になりたいボーイ・出会う男すべて狂わせるガール」(扶桑社)
監督・脚本:大根仁
出演:妻夫木聡、水原希子、新井浩文、安藤サクラ、リリー・フランキー、松尾スズキ
制作:ホリプロ、オフィスクレッシェンド
制作協力:東宝映画
配給:東宝
(c)2017「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」製作委員会
公式サイト:tamioboy-kuruwasegirl.jp

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