『過保護のカホコ』好評価の理由は遊川脚本にあり 80年代ドラマ想起する竹内涼真の男の子像

 『過保護のカホコ』が折り返し地点に入った。日本テレビ系で夜10時から放送されている本作は、両親から過保護に育てられたカホコ(高畑充希)が主人公のドラマだ。脚本は『女王の教室』や『家政婦のミタ』(ともの日本テレビ系)といった数々のヒット作を生み出してきた遊川和彦。

 過保護に育てられた女性の母子密着問題を描くと知った時は、今年の春クールに放送された井上由美子・脚本の『お母さん、娘をやめていいですか?』(NHK)が同じテーマをかなり深いところまで描ききっていたため、はじまった当初は二番煎じになるのではないかと心配していたのだが、話数が進むにつれてまったく違うアプローチとなってきたので、今は安心して楽しんでいる。

 本作が見ていて楽しいのは、カホコが自立するきっかけが、麦野初(竹内涼真)への初恋だということだろう。

 麦野を演じる竹内涼真は、連続テレビ小説『ひよっこ』(NHK)で育ちのいい好青年・島谷純一郎を演じてブレイクしたのだが、本作の麦野はピカソを目指しているという大学生で、島谷とは正反対の、軽薄な青年だ。だがその根っこにはちゃんと優しさがあって、厳しい口調ながらもカホコを心配する。そんな麦野の姿は、先行きが不穏な物語に希望を与えてくれる。

 カホコと麦野の関係を見ていると、久しぶりに遊川和彦が持っていた明るい部分が出てきたなと思った。遊川は、80年代後半にデビューしてからしばらくの間、TBSでコメディドラマを量産していた。

 その時によく主人公にしていたのが『オヨビでない奴!』の風間遊介(高橋良明)のような一見、軽薄で無責任なのだが、実は誰よりも優しくて良い奴という男性キャラクターだ。その流れは90年代には『GTO』(フジテレビ系)にも引き継がれたが、2000年代に入り遊川が『女王の教室』で作家としてブレイクした辺りから、男の側はどんどん無力で情けない存在となっていき、物語の中心はロボットのような強い女ばかりとなっていた。本作の主人公も一応、女性のカホコなのだが、過去作と較べると麦野の存在がとても大きく感じる。

 もう一つ面白いと思ったのは遊川ドラマの核とも言える、露悪性が薄まってきていることだろう。おそらく多くの視聴者が遊川を作家として意識したのは『女王の教室』ではないかと思う。競争に満ちた世の中の残酷な真実を伝え「いい加減、目覚めなさい」と説く謎の女教師・阿久津真矢(天海祐希)と小学生の生徒たちの戦いを描いた本作は、真矢に子どもたちが精神的に追い詰められる描写に対して抗議が殺到した。しかし、物語後半から、子どもたちが成長し真矢の教師としての意図が伝わると評価は一転した。

 後の『家政婦のミタ』にもつながる『女王の教室』の作劇手法は、不快感を煽る露悪的な描写で、まずは視聴者を引き込み、物語前半はとことん主人公を追い詰めてどん底に突き落としていく。そして、物語後半から逆転劇を描くというもので、今の言葉で言うと一種の炎上商法に近いものだった。

 しかし、このやり方が本当の意味で成功したのは『家政婦のミタ』までで、連続テレビ小説『純と愛』(NHK)以降は、遊川の露悪性が自家中毒を起こして、後半の逆転劇をうまく描けなくなっているように見えた。そのため、救いのない結末を放り投げるように描いて、後味悪く終わる作品も多い。

 こういった遊川の作風は個人的には嫌いではない。特に『純と愛』の救いのない結末は朝ドラでよくやったと、今でも評価している。

 だが、一方で思うのは炎上商法的な手口自体に、今の視聴者はウンザリしているのではないかということだ。そういった時代の流れにテレビドラマの作り手はとても敏感だ。

 坂元裕二の『カルテット』(TBS系)や岡田惠和の連続テレビ小説『ひよっこ』(NHK)といったベテラン作家の最新作の傾向も、露悪的な現実を突きつけるような作風から、理想的な共同体をベースとした優しい世界を描く方向へとシフトしている。

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