モルモット吉田の『3月のライオン』評:比較で浮かび上がる羽海野チカの世界
映画を比べるのは、品の良いことではないという意見がある。片方を持ち上げるために、別の映画を持ち出してきて貶めるのは下品ではないか、というわけだ。確かに、あらゆる周辺状況を取っ払って映画を観ることで、純粋にその作品のみと接することができる――とは思うが、映画は常に比較されることを運命づけられている。原作と比べてどうか、類似した映画と、同じ監督の前作と、俳優のこれまでの出演作と……等々、果てしなく比較の対象になってしまう。
そういえば、数年前に読んだツイートで未だに印象深いものがある。
プロデューサー氏の無知を嗤っているのではなく、映画を観れば観るほど、驚きが遠ざかってしまうと思うことがある。『羊たちの沈黙』(91年)を知らなければ、さらに言えば黒澤明の『天国と地獄』(63年)を知らなければ、『踊る大捜査線 THE MOVIE』(98年)はかつてないほど斬新な映画に違いない。もちろん、引用するにしても、もっと上手く元ネタと分からないようにアレンジしてくれよ、という思いはあるが。『羊たちの沈黙』にしたところで、公開時は『サイコ』(60年)や『コレクター』(65年)との関連を取り沙汰されていたのだから、やはり映画は比較から逃れることができないようだ。
その意味では、羽海野チカ原作の実写映画化作品は――と言っても『ハチミツとクローバー』(06年)と『3月のライオン』しかないのだが――実写化のたびに、その前後に公開された同じテーマの作品と比べてしまう。『ハチミツとクローバー』の時は同じく美大を舞台にした恋愛映画『人のセックスを笑うな』(08年)、『3月のライオン』は同じく若き天才棋士を主人公にした『聖の青春』(16年)。
実際に両作を観比べれば、同じ題材を扱いながら、こんなにも違う世界になるのかと感嘆する。羽海野チカの世界は、カラフルで季節の移り変わりを物語のブリッジに鮮やかに展開していくが、『人のセックスを笑うな』や『聖の青春』は冬枯れのくすんだ空気をフィルムに定着させ、若者たちの喜びと共に陰りを帯びた瞬間を静かに描き出す。
暗い映画よりも、ポップな羽海野チカの世界の方が良いという好みもあろうが、筆者はこの両方こそが映画と思うだけに、『聖の青春』と『3月のライオン』を興味深く観比べていた。最も分かりやすいのは、染谷将太だろう。ただ一人、両方の作品に出演しているが、彼の演技を観れば両者のありようがいっそう明らかになる。『聖の青春』で染谷は主人公の天才棋士・村山聖の弟弟子を演じるが、聖の様な才能はなく、自暴自棄になりながらも献身的に破天荒な聖を支える。『3月のライオン』では聖をモデルにしたとおぼしい難病を抱えた二海堂晴信を染谷は演じている。
ネフローゼ症候群を持病に持っていた聖は、病状につきまとう浮腫もあって巨漢である。『聖の青春』で松山ケンイチは、実際に20キロ増量して役に挑んでいる。一方、『3月のライオン』の染谷は特殊メイクによって、一見したところ染谷とは気づかない風貌になっている。
増量と特殊メイク、どちらがエライなどという話ではない。これが逆であったなら、どうだろう? 松山ケンイチが特殊メイクで村山聖を演じていたら、染谷将太が本当に増量して二海堂晴信を演じていたら。実話をもとにリアリズムを基調にした『聖の青春』の世界は一瞬にして壊れ、フィクションゆえの広がりを持つ『3月のライオン』の世界は異物感漂うものになってしまうだろう。同じテーマでも、その映画に相応しい表現方法を見極めることに、両作とも自覚的である。
『3月のライオン』の世界には、盛り込みすぎると思えるほど、喪失と対立があらゆる登場人物に配置されている。主人公の桐山零(神木隆之介)は9歳の時に両親と妹を亡くし、父親の友人であるプロ棋士の幸田柾近(豊川悦司)に引き取られ、内弟子として将棋を教えられながら育つ。しかし、幸田の子どもたちからは疎まれ、将棋が強くなることでしか生きる道が残されていない。
幸田柾近は強くなっていく零に肩入れすることでプロ棋士を目指させていた自分の子どもたちの道を閉じ、親子関係は喪失し、以降は対立のみが続く。零がふとしたことで知り合い、安らぎを得る川本家の3姉妹も父が失踪し、母は病死した過去を持ち、後編で登場する父親(伊勢谷友介)との対立に向き合う。川本家の中学生の次女にしても、後編ではクラスでいじめを庇ったことから標的が自分に向かい、人間関係を喪失しながら対立が続いてゆく。
脇に目を転じても、零が対局する安井学(甲本雅裕)は勝敗によって家庭内暴力が起きるため妻と離婚が決まり、娘は怖がって近づいてこない。そして、最大のライバルである後藤正宗(伊藤英明)には入院中の妻がおり、妻の病状悪化と対局が重なりあっていく。さらに後藤は幸田の娘・香子(有村架純)とも不倫関係にあるのだから、こうして列挙するだけでも、ドラマを作りすぎではないかと思えるほどだ。