宮台真司×中森明夫が語る、世の摂理を描き切る映画の凄味  『正義から享楽へ』対談(後編)

『正義から享楽へ』対談レポ(後編)

 中森明夫さんは4月に『アイドルになりたい!』(ちくまプリマー新書)という新刊を出されるけど、大人に向けて書いているのかなと思うくらい深い内容でした。印象的だったのは、アイドルになることは<クソ社会>と正面から向き合うことと同じで、それができないならすぐに脱落するだろう、と書いてあったことです。

中森:そうそう。腹黒になれ、と。

宮台:そこでの「アイドル」は「あるべき若者」の喩だと感じる。<クソ社会>だとしても正しい方法で正しい選択をすれば生きていけるはず、みたいな潔癖症的妄想が目立ちます。正しいものと正しくないもの。いい奴と悪い奴。可愛い子と不細工な子…。不安ベースならぬ幸せベースで生きるには、愚昧な白黒図式を取り除く必要があります。

中森:そうそう、グラデーションですよね。

宮台:そう、グラデーションです。そもそも悪いことが全くできない男や女を好きになれるの? 火中の栗を拾わない合理的人間なんて、入替可能な「没主体」に過ぎません。誰もやれないことを誰もやれないという理由だけで敢えてやるような「変な奴」だけを、本当に好きになれるんじゃない? これは僕の性愛ワークショップの主題です。

 女のニーズに合わせることに腐心する馬鹿男を好きになるの? 女が知らない魅惑的な世界に連れて行ってくれる男にどのみち寝取られて終了じゃんね。本人自身が何が本当で何が嘘か分からなくなっているようなペテン師に、惹かれる女が大勢いるのはなぜなのか。単に口がウマイからじゃないよ。どうウマイのかを考えなきゃいけない。

中森:最近のトピックとして、『サピエンス全史』という本がありますね。著者のユヴァル・ノア・ハラリは76年生まれで、宮台さんと言っていることが非常に近くて面白いと思った。つまり、いろんな高等類人猿のなかで、サピエンスだけが虚構を信じたから、このような発展を遂げたと。面白かったのは、農業革命により定住が可能になって、人口がものすごく増えたが、それを巨視的に見て「ゲノムを増やす」ということを考えると、人間は小麦を育てる奴隷になってしまったと。小麦を育てるのって大変で、苦痛を伴うんですよ。それ以前の時代の狩猟民のほうがはるかに「楽しかった」と。これは、宮台さんの言う「享楽」につながりますね。

宮台:社会学の伝統では、「皆は〜」といった、<見ず知らずの仲間>に関する<妄想>を、皆が共有する筈だと皆が信じているのが、社会です。短く言えば<妄想>の共有への面識圏を超えた信頼。社会とは大規模定住社会です。成員と非成員が区別されてるが、成員の大半と会ったことがない。だから<見ず知らずの仲間>という言い方をする。

 大規模定住社会は、仲間でもない人を仲間と見做す矛盾を抱えます。戦争が起きたら「本当の仲間」と逃げるのが合理的なのに「ウソの仲間」のために戦場で死ぬ。平時に「ウソの仲間」の恩恵に預かる以上は逃げたらフリーライダーになるけど、倫理を横に置くと、「ウソの仲間」を仲間と思い込んで内発性を発揮するには特殊な条件が必要だ。

 その条件を人工的に整えるのは難しい。三島由紀夫が言う通り、愛国教育をすれば損得で愛国ブリッコをする優等生だらけになる。実際そうした輩は敗戦したら途端に「僕はアメリカ大好き」「僕こそ民主主義者」と言い出した。戦後保守が「対米ケツなめ」を無条件で愛国と言い張る奇怪は、愛国教育が愛国者を作ると信じる愚に関連します。

 さて、先の特殊な条件は、ナポレオン戦争後百年余りしか続かなかった。70年前後のベトナム戦争では若者が3万人死ぬだけで政権が倒れ、以降は遠隔操縦兵器開発に勤しんでドローンに至る。80年頃には福祉国家政策を拒否する新自由主義が興ったが、財政危機は表向きの理由。どこの馬の骨とも分からん奴への再配分の嫌悪が大きい。

 今後、国民国家規模の<見ず知らずの仲間>のために死地に赴く若者は永久に出てこない。たとえ財政が好転してもかつての福祉国家政策に戻る可能性は永久にない。「仲間ならシェアしたいが、こんな奴は仲間じゃねえ」という指弾が永久に続く。マクロな感情教育が全体主義だと批判される今日、これにマクロに抗う方法は一切ありません。

 とすれば、ブレグジットもトランプ誕生も自然です。<妄想>共有を信頼できない人々の大規模集住。互いの<妄想>の両立可能性さえ疑わしいと、人は疑心暗鬼になる。今は近隣騒音で警察を呼ぶけど、昔なら考えられないよ。「こんな時間にあんな音を出するは自分のことしか考えない鬼畜に違いない!」と思うようになったからです。

中森:被害妄想だ。

宮台:そう。「そんな鬼畜に文句をつけたら殺されるから110番だ」と(笑)。こうした被害妄想は、<妄想>の両立可能性を疑い合う人々が織り成す大規模定住社会の、自然な帰結です。さて、そんなふうに各個的な<妄想>に分断された連中であっても、自分たちは<妄想>を共有すると信頼し合えるための、最後の手段がある。敵の共有です。

中森:ああ、なるほど。カール・シュミットの図式だ。

宮台:ルソーは、損得という自発性を超えた、内から湧く内発性が働く範囲が、社会の最大規模だとした。政治的決定が仲間の各々に何を意味するかを誰もが想像でき、そのことを誰もが気に掛ける範囲で、2万人が上限。シュミットは上限を超えた大規模国民国家で人々に内発性を抱かせられるのはカリスマ的独裁者だけだと考えました。

 独裁者が作り出すのが「こいつらが敵」という<妄想>の共有への信頼です。単なる敵じゃない。話し合う余地がないので叩き潰すしかない悪魔です。シュミットの友敵図式の共有とは<悪魔化>です。安倍晋三という悪魔を共有する糞リベ。中国という悪魔を共有するウヨ豚。ムスリムという悪魔を共有する白人主義者。全てが同じ自動機械。

中森:アーザル・ナフィーシーというイランからアメリカに亡命した学者が、『テヘランでロリータを読む』を書いて世界的なベストセラーになりましたね。彼女はイランとアメリカが戦争になったとき、秘密パーティーのようにして、いわば敵国の英文学を教えていた。日本よりも教育環境はずっと悪いのに、そこの女の子たちは文学のめちゃくちゃ学びが深いわけですよ。例えば、フィッツジェラルドの『華麗なるギャッツビー』について大学で教えていると、イランの男は「ギャッツビーはアメリカ帝国主義の手先だ!」と言うが、それに対して女子たちは、「夢を大切にすることと、夢の危険性を描いた小説だ」とバシッと言った。『ロリータ』についても、ポルノでもなんでもなく、人間の支配・被支配とか、性の自由という問題を描いているんだと、自分が置かれている環境から鋭く見ている。

宮台:<悪魔化>に淫する自動機械の脊髄反射を、教育で鍛えた“意識”で克服する。間違いなく必要なことですね。脊髄反射の没主体から、“意識”で反応が遅れる主体へ。

中森:教養的なもの、情報だったら、今はネットに溢れている。やっぱりそこで気づきを得られるかどうかなんですよ。宮台さんの『正義から享楽へ』は、もちろん情報もぎっしり入っているし、映画の話も面白いんだけど、それ以上に、気づきへのメッセージに溢れていると思った。

宮台:脊髄反射の没主体をクズとして描くのが昔から名作映画。脊髄反射ならぬ“意識”ゆえに反応が遅れる主体だけが主人公になる。加えて、計算可能な合理性の枠内でだけ行動する没主体をクズとして描くのも昔から名作映画。合理性を超えて内発性を発揮、周囲に感染的摸倣をもたらす主体だけが主人公になる。初期ギリシャ的です。

 そうした教養を踏まえ、文字通り“意識”的に映画を撮る人が増えてきた。どんな人物が感染をもたらすか。世の摂理が人智を超えることを弁えるがゆえに非合理を厭わない人物だけです。だから主人公はそうした人物に成長する。人智を超えた世の摂理を描き切る映画は「この監督は凄い、自分が知らないことを体験している」と思わせます。

 読者にそんな作品を紹介したいという思って本書を書きました。20年以上の付き合いになる中森さんがお相手なので今日は本に書けなかったことも喋れました。でも言葉を自由に使えることは不自由を意味するといった、本で重点的に扱った主題についてはあまり喋れなかった。それらについては『正義から享楽へ』をお読みください。

(取材・文=編集部)

■書籍情報
『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』
発売中
著者:宮台真司
定価:1800円+税
ISBN-10:4773405023/ISBN-13:978-4773405026
仕様:四六判/392ページ/ソフトカバー
発行:株式会社blueprint
発売:垣内出版

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