現代日本の欠陥を問う『サバイバルファミリー』は、矢口史靖監督による“逆東京物語”だ
雪国の冬の娯楽といえば、スキーや雪だるま作りだったりするわけだが、私が親戚のいる地方で体験したのは、東京の街を歩く通行人が凍った路面でツルツル滑って転ぶ様子をユーモラスに伝えるTV番組を見ることだった。私の観測範囲に限っていえば、都市生活者の自然への適応力のなさというのは、地方の老若男女にものすごくウケる。
本作『サバイバルファミリー』は、価値観が逆転するコメディーである。「ある日突然、電気が利用できなくなった」というSF的なシチュエーションが、都会と田舎の立場をひっくり返す。かつては過密都市だった土地から人が消え去り、食料を求めて過疎化が叫ばれていた田舎に移動するのだ。街の人々が、物資を買いに田舎に出かけていた太平洋戦争の時代を再現するような光景である。
小日向文世演じる父親と、深津絵里が演じる母親、そして大学生の息子、高校生の娘による鈴木家も、生きるために東京を脱出し、母親の実家がある鹿児島へと向かう。普段は家庭に君臨し、威張り散らして家族に文句をつけている父親は、体力と自然への適応能力が必要となるサバイバル生活にあって、うるさいだけでほとんど役に立たず、家族からいよいよ白い目で見られる。価値観の変化を強いられるのは、「家族」という小さな共同体のシステムもまた同様なのである。
電気以外のライフラインも断たれ、乗用車は機能せず、日常の生活が崩壊していく描写からは、阪神淡路大震災や東日本大震災の光景をも想起させずにおれない。この犠牲や被害の記憶が、この映画をただのコメディーから、悲哀を多分に含んだ複雑なものに変化させているといえる。若者を描いたコメディーという印象の強い矢口史靖監督作だが、私が劇場で観たところ、今回の映画はとくに中高年の観客の反応がいいようだ。
冒頭、フィックス(カメラの固定)によって、画面内に幾何学的に切り取られたビル街の風景が現れる。この鮮烈な静的イメージが小津安二郎監督の映画におけるそれを暗示していると感じるように、本作で語られるのは意外にも、複数の「小津的」な主題だ。小津映画といえば、ひとつのささいな事件が起こした波紋によって、もともと存在していた家庭の問題が浮き彫りになっていくという内容が多い。その問題とは、世代間や性別の違いに生じるもめごとや、都会や田舎のリズムのずれ、または、日本の慣習と実際の人間の生活との間に生じる摩擦などである。多くの場合、これら複数の対立構造が立体的に絡み合うことで、そこに日本全体を包括するようなダイナミックなテーマが立ち上がってくるという仕組みとなっている。
矢口監督は、今回『サバイバルファミリー』によって、「小津調」と呼ばれる撮影手法を取り込もうとしてきた周防正行監督や黒沢清監督のようなアプローチではなく、テーマや作劇の構造によって、総合的により小津映画に近い場所に到達したのではないかと思わせる。というのは、小津安二郎監督も、初期は喜劇を数多く撮っていたからである。この、喜劇から人間ドラマへの緩やかな移行というのが、ナチュラルに小津的といえる流れなのである。本作は、もしかしたら今後の矢口監督のそういった方向性を決定づけることになる作品なのかもしれない。