市川崑『犬神家の一族』からの脱却ーー長谷川博己、池松壮亮らによる新たな金田一耕助像

不発のリブート計画

 実は、これまでにも一部の作り手は金田一のリブートを試みていた。中井貴一の『犬神家の一族』(90年)では、再び金田一を洋装に衣替えさせ、各キャラクターの解釈を変更し、脇役の弁護士や刑事までが腹に一物ある人物として登場する。台詞が原作と同じにはならないように細部まで言い換えを徹底するなど、本作の脚本を書いた長坂秀佳の意気込みが伝わる意欲作だったが単発的な試みに終わった。

 もうひとり、リブートを画策したのが岩井俊二である。まず手始めにOCNのCM『木村一探偵・メールアドレス編』(97年)で木村拓哉に金田一の扮装をさせ、洋間に親族、刑事らを集めて謎解きを行う『犬神家』のパロディを撮っている。〈教本〉と奉る岩井らしいCMだが、映像をつぶさに観れば、逆光の照明、シネマスコープでミニクレーンを活用した浮遊感のあるキャメラの動きなど、〈教本〉で習得した技法を発展させ、市川崑とは似て非なる岩井版金田一になっていた。これに目ざとく反応したのが岩井との対談時にこのCMを観た市川崑本人である。共同監督を持ちかけ、複数の企画が検討された末に市川が以前から横溝の最高傑作と絶賛した『本陣殺人事件』の映画化企画が動き始めた。

 ここで岩井は二部構成を提案した。原作通りの展開をたどる第一部と、事件解決から数十年後に今では旅館となった本陣を訪れた金田一が自分の推理が間違っていたことに気づくオリジナル展開の第二部というもので、本作でよく知られる密室トリックが実は存在せず、別の仕掛けがあったことに金田一が気づくストーリーが考案された。岩井作品の大半が、前半と後半でストーリーが別れ、まるで2本分の映画を観ているような気分になることが多いが、そうした特色を踏まえれば、『本陣殺人事件』二部構想は自然な発想だろう。そして、これは原作と市川崑の金田一シリーズをリスペクトしつつ、長年の呪縛から解放するアクロバティックな大技でもある。2005年頃までこの企画は検討されていたというが、最終的にこの構想に乗れなかった市川の降板によって映画化が流れたのは惜しまれる。そして市川はこの後、前述の『犬神家』の再映画化へと向かい、リブートの機会は失われた。

新たな金田一耕助の誕生

 今もテレビには金田一がウジャウジャいる。昨年末の『絶対に笑ってはいけない名探偵24時』には石坂浩二が金田一役で登場し、今年の年頭から流れたCM『カップヌードル「STAYHOT 名探偵篇」』では石坂と同時期にテレビドラマ版で人気を二分した古谷一行が久々に金田一として登場した。この番組とCMが、いずれも石坂版『犬神家』を意識した設定が用意されていたのは、〈教本・犬神家〉が、いっそう浸透していることの証左でもある。

 しかし、連続ドラマから2時間ドラマと、テレビで30年近く金田一を演じ続けた古谷を起用しながら、そのCMが石坂版『犬神家』の影響を露骨に感じさせるものでいいのだろうか? 古谷版『犬神家の一族』(77年)が最高視聴率40パーセントを超え、逆立ちなど独自の工夫を凝らした人間くさい金田一像を作り出し、テレビドラマ史に燦然と輝く作品であることを忘れ、石坂版もどきの映像にはめこまれた古谷がひどく居心地悪く見えたのは筆者だけだろうか?

 そうした末期的状況の中で登場したのが長谷川博己の『獄門島』である。これがなんと40年にわたって重しになっていた石坂版からの脱却を果たした新たな金田一の誕生を印象づける秀作になっているのだ。

 横溝が金田一を小説に初登場させたのは昭和21年に執筆した『本陣殺人事件』である。翌年には早くも『三本指の男』(47年)の題で映画化されているが、この改題は占領下の日本で連合国軍総司令部から、小説の題に〈殺人〉が付くのはいいが、大衆への影響が大きい映画では刺激が強すぎるという干渉があったためである。その後の映像化でも昭和20年代か現代に設定が変更されるので忘れがちだが、原作は昭和12年が舞台である。そして昭和22年執筆の『獄門島』は昭和21年の物語である。この2作は物語上では9年の開きがある。原作の記述をたどれば、その間に金田一は招集されて兵隊として南の島を転々とし、ニューギニアで終戦を迎えている。戦友たちは熱病と栄養失調で次々と死んでいく中で金田一は生き残ったのだ。かつて市川崑が映画化し、昨年、塚本晋也によって再映画化された大岡昇平原作の『野火』(59年/15年)で描かれたような地獄を金田一は見てきたと想像できる。

 こうした経緯を経て、戦友の遺言を携えて金田一は獄門島にやって来たわけだが、原作は戦後間もない時期の価値観の急激な変貌を背景として強調するが、これは同時代に書かれた小説だけに当然そうした色彩は濃くなる。だが、70年後に映像化するなら同じ視点にはなるまい。戦争の影に主眼を置いたのが長谷川版『獄門島』である。原作には「日本のほかの青年と同じように、かれもまたこんどの戦争にかりたてられ、人生でいちばん大事な期間を空白で過ごしてきたのである。」と記されているが、若き日のアメリカ滞在時には麻薬中毒に陥ったこともある金田一は、本作では戦争で精神を荒廃させた帰還兵として現れる。

 劇中で容疑者と誤認されて駐在所に留置された金田一は独房内で、獄門島出身の死んだ戦友の幻覚を見る。また謎の兵隊服の男を捜索するための山狩りで銃撃戦となるが、間近に弾を受けた金田一は再び戦友の幻覚に苦しむ。こうして何度も金田一の前に現れる戦友が死の間際まで危惧したものが、本作の連続殺人であり、それを阻止できなかった金田一の煩悶は、最後の謎解きで興奮のあまり異様な言動になって現れる。「無駄無駄無駄無駄無駄!無意味!ご苦労さまでした!ザマアミロだ!!」と大笑いするのだ。原作からも大幅に逸脱する振る舞いだけに賛否別れるだろうが、片岡千恵蔵がスーパーヒーロー、石坂浩二が神様の視点で金田一を演じていたと見るなら、長谷川博己は金田一のアンチヒーローぶりと地獄を見てきた者が内に秘めた狂気を明確に打ち出して演じる。それゆえに劇中で何度か流れるマリリン・マンソンの『キリング・ストレンジャーズ』は、最初こそ奇をてらいすぎと思えるが、やがて『悪霊島』(81年)に使用されたビートルズの『レット・イット・ビー』『ゲット・バック』よりも効果的に金田一の心情に寄り添って聴こえてくるほどだ。

 映画を除けば「気が変わっているが」「気が違うが」に言い換えるか、台詞自体をカットする処置が取られてきた物語の根幹にかかわる台詞「気ちがいじゃが仕方がない」が原作の意図を尊重してそのまま使用されている点も特筆すべきだが、石坂版『獄門島』では東宝撮影所の各ステージにセットを組む贅沢な撮影が行われたが、本作のようにオールロケ、デジタル撮影の時代における金田一ものの在り方を提示した映像も素晴らしい。石坂版『犬神家の一族』以来の新たな一歩を踏み出したと言っても過言ではあるまい。ラストに次の事件が『悪魔が来りて笛を吹く』であることが示唆されたが、これが次回作として実現することを願いたい。

 もうひとつの「シリーズ横溝正史短編集 金田一耕助登場!『黒欄姫』『殺人鬼』『百日紅の下にて』」も意欲作が並んでいる。こちらは脚本のクレジットが無いことからも分かるが、原作を忠実に映像化することを軸にした〈絵解き〉の側面が強いが、限られたセットやグリーンバックでの背景のCG合成を活用して、それぞれの演出家が原作に沿いながら自在に映像で飛躍させている。横溝作品の映像化は有名長編に限定されがちだったために、こうしたローバジェットでの試みは新鮮な驚きがある。池松壮亮の金田一は、台詞回しは石坂版を意識しているきらいもあるが、ホームレスのようだったり、こざっぱりしていたり、雀の巣のようなモジャモジャ頭が過剰化していたりと各話でアクセントをつけているので、既成概念に囚われない新たな金田一を毎回楽しむことができる。

 『完本 市川崑の映画たち』(市川崑・森遊机著/洋泉社)によれば、かつて市川崑のもとにもBSドラマで金田一もののオファーがあったという。そこで短編の中から「舞台劇のように、瓦礫とバーのセットが一つずつあればいいので、低予算でも可能」と、『百日紅の下にて』を森氏が提案するくだりが出て来る。結果は市川から「金田一をやるからには、前衛演劇のような小さなスケールではダメ。やっぱり、ある程度の大作でないと」という判断が下る。つまり、市川が撮らない金田一とは〈前衛演劇のような小さなスケール〉のもの、ということになる。池松版『百日紅の下にて』は、まさにそうしたスタイルだからこそ可能な横溝の世界が匂い立つ秀作になっていた。

 ところで、金田一の再リブートは今回のNHK BSプレミアムだけで成し遂げたわけではない。稲垣吾郎の金田一シリーズが果たした役割も大きい。何を言うか、稲垣版『犬神家』は石坂版を踏襲していると言っていたではないかと思われるかも知れないが、稲垣版はシリーズ2作目の『八つ墓村』から独自性を発揮し、原作を忠実に映像化する路線が定着する。実際、石坂版は原作に忠実なようで脚色も多く、原作に残された原石を磨き上げて映像化可能と提示した点でも稲垣版が果たした役割を忘れるわけにはいかない。

 実は稲垣で『獄門島』を映画化するという企画もあったというが、これは地上波では原作の「気ちがいじゃが仕方がない」ができないために出てきた案でもあったが、長谷川版が反響を呼ぶ今、復活してほしい企画である。ドラマでやったばかりじゃないかと言う向きもあるだろうが、金田一ものの魅力は同じ原作でも優れた脚色と演出、演者が揃えば退屈することなく観ることができることだ。連続ドラマの古谷版『獄門島』(77年)の最終回が放送された翌週に石坂版『獄門島』が公開されたこともあるのだから、金田一耕助を再起動させる端緒となった星護監督と稲垣吾郎による映画『獄門島』は今こそ実現してほしいものだ。

■モルモット吉田
1978年生まれ。映画評論家。「シナリオ」「キネマ旬報」「映画秘宝」などに寄稿。

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