松江哲明の“いま語りたい”一本 第9回

イーストウッドは“重厚な余白”をどう作ったか? 松江哲明が語る『ハドソン川の奇跡』

96分の中に、“行間”を感じさせる編集

 観ているうちに時間の感覚がおかしくなるのも、本作の興味深いところ。サリー機長は事故のショックで不眠症になるのですが、自身の体験してきた過去がフラッシュバックしたり、事故当日の映像がインサートされたり、かと思えばテレビ出演していたり。一瞬の判断で人生が目まぐるしく激変してしまったサリー機長の感覚を、観客も追体験していくような非常に巧みな編集が行われています。そして、シーンとシーンの間にも重厚な余白があるんです。

 行間がある映画というか、カットとカットの間、シーンそのものだけではなく、シーンに映っていない何かがある。近作のイーストウッド映画に外れがないのは、その行間の作り方を知っているからなんですよね。どんなテーマを撮ろうが、どんな手法だろうが、やっぱり面白い。そこが、イーストウッドが映画人に愛される理由でしょう。

 この映画が96分ということが話題になるぐらい、最近は長尺の作品が多いですよね。冒頭、中盤、終盤と定期的に見せ場を作るから、全体が膨れてしまっている。それってDVDの悪い影響だとぼくは思っていて。チャプターで区切られてしまっているというか、飛ばしながら観ても楽しめる構成にしているんですよ。アメコミの映画などは特にそういう印象です。一方で、この映画にはチャプターがない。だから飛ばしてみても全然面白くないと思う。でも、それゆえに「映画を観たなあ」という満足感も大きいです。もしかしたら、もっといいシーンがあったかもしれないけれど、あえて96分でバッサリ切っている感じで、作品としてのまとまりを優先しているのだと思います。

 よく新人の映像作家は、「いいシーンが多くて切れない」って言うんですね。僕も撮っているときには、同じように思うことも多いです。でも、本当に面白い映画って、気合の入っているシーンだけが優れているわけではないんですよ。さり気ないシーンや、ちょっとした実景なども、映画全体の空気がちゃんとできていれば、自然と魅力的なシーンとして浮かび上がってくる。逆に言えば「いいシーンが撮れた!」って思うところほど、先にバッサリと切った方がいい場合もある。いいシーンが100点だとすると、そこだけが目立ってしまって、ほかのシーンが50点に見えてしまうんです。

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