宮台真司の月刊映画時評 第8回(前編)

宮台真司の『シン・ゴジラ』評:同映画に勇気づけられる左右の愚昧さと、「破壊の享楽」の不完全性

パイロット版としての『巨神兵東京に現わる』

 制作陣にそれを言い切らせたのが、他でもない『ゴジラ』だったというわけなのです。いずれにせよ、「悪夢こそが享楽である」というポリティカリー・インコレクトなビジョンーー怪獣映画の隠れた(しかし本当は誰もが知っている)モチーフーー米国映画として初めてあれほど臆することなく挑発的に描いたのは、『クローバーフィールド/HAKAISHA』が初めてでしょうね。

 かつて『クローバー~』を見た際、今後のゴジラ・シリーズはこの映画が目標の一つになるだろうと予想しました。実際、その4年後に公開された庵野秀明脚本・樋口真嗣監督の10分間の短編『巨神兵東京に現わる』(2012)を見て、予想通りだったなあと思いました。驚いたことに、冒頭から2分30秒まで、林原めぐみのモノローグを背景にした東京の日常描写なのですね。

 日常の描写が徹底するほど、後続する「破壊の享楽」が増幅されて眩暈に満ち溢れるーーこの事実はフロイト=ラカンの「法と超自我(裏の法)の理論」で説明しきれます。思えばテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』からして既に、「破壊の享楽」を準備するための徹底的な日常描写が庵野秀明の十八番でした。それを思えば『クローバー~』の逆輸入という訳ではないのでしょう。

 『シン・ゴジラ』を見ると、そのパイロット版が『巨神兵~』だった事実が分かります。そこには、秩序に満ちた日常の描写によって増幅された「破壊の享楽」があります。但し違いがあるとすれば、長い日常場面に引き続く破壊場面という時系列には必ずしもなっておらず、破壊場面にも拘わらずいつまでも動き出さない行政官僚制の日常という対位法が用いられています。

 この抽象的な形式に着目すると、いつまでも動き出さない行政官僚制の日常描写は、観客をじれったさでヤキモキさせるサスペンスフル化の機能だけでなく、巨神兵と全く同じく口から発射される一本のビームと体から四方に発射される複数のビームを用いたゴジラによる首都破壊を、より享楽化する機能ーーカタルシスを増幅する効果ーーを果たしている事実が分かります。

岡本喜八『日本のいちばん長い日』の再現

 巷を見ると、右も左も『シン・ゴジラ』大絶賛です。曰く、昨今の日本(人)の駄目さを描きつつ、日本(人)が本来持つ連帯の底力を歌い上げる、日本の観客を大いに勇気づける作品だ…云々。僕に言わせれば、これほど読解力を欠いた理解はありません。日本の観客が被っている劣化ぶりが、こんなにも進んでいるとは思いませんでした。順を追って説明して行くことにしましょう。

 庵野監督の作品は、御自身が告白している通り、黒澤明監督と岡本喜八監督の大きな影響を受けています。黒澤明からは「活劇場面のダイナミックなモンタージュ技法」を学んでいますが、岡本喜八からは「非常事態を背景とした行政官僚制の為体というモチーフ」を学んでいます。本作を見れば、誰もが岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』を意識している事実に気付きます。

 本作には、政府関係者たちの「事なかれ主義的なお役所対応」が自虐的なばかりに描かれます。政治家でさえ行政官僚的メンタリティから抜けられず、平時に回るシステムに依存し続けます。M・ウェーバーに依れば、行政官僚は既存プラットフォームでの予算・人事の最適化を期する一方、政治家は危機に際し既存プラットフォームの取替を期するので、両者は強い緊張関係にあります。

 政治家は世論を背景とした予算・人事への影響力を梃子にして行政官僚の抵抗を突破したがりますが、行政官僚は政治家の疑獄事件の追及を通じて自分たちに不利益な制度変更を企てる政治家から世論の支持を引き剥がして政治の表舞台から除去したがります。でも今日の日本にはもはや政治家と行政官僚の緊張関係はなく、政治家が専ら行政官僚におんぶに抱っ子の状態です。

 『シン・ゴジラ』も、『日本~』と同じく、既存プラットフォーム上での権益の鍔迫り合いに勤しむ行政官僚ら(に依存する政治家ら)の出鱈目を描きます。「いつまでも動き出さない行政官僚制の日常」の悲喜劇を描くのです。現実の日本に酷似します。序盤での政府の描写はリアルです。ところが、それが中盤から「こうあってほしい」という理想の日本の描写へと切り替わります。

 しかし鑑賞後の余韻は、爽快からは程遠い。むしろ深い絶望を感じました。死を目前に控えた老人が、あり得たかもしれない華々しい人生を夢見ていたところが、不意にそこから目覚めて現実に帰ったときに味わうであろう絶望です。その絶望は、右も左も本作を「勇気づけられた」などと大絶賛している状況を踏まえると、より深まります。もう少し詳しくみましょう。

「日本人の欠点がそのまま長所」というファンタズム

 前半では、僕たちがよく知っている現実が描かれています。即ち、政権政党が何であるかに拘わらず、平時を前提にしたプラットフォーム上での予算と人事(天下りポストを含む)の最適化を追求する一方、非常時には愚鈍で能なしの怪物である他はない、自己保存を自己目的化している行政官僚制という「動物」が、コミカルに描かれます。そこが岡本喜八的な表現になります。

 しかし、ゴジラの一撃で深刻な被害が出てからは、非常事態における日本の行政官僚制において、「もしかしたらありえるかもしれない」優秀さが発揮されます。ゴジラが段階を踏んで変化していくように、行政官僚制も変化していく。縦割り行政のなかで、なぜか瞬時で微妙な阿吽の呼吸のような調整が始まり、前半とは似ても似つかないパフォーマンスが示されるのです。

 通常こうした映画では、停滞した組織の中から一人の英雄的な人物が出現し、彼の倫理的な毅然とした佇まいに賦活されてーーミメーシス(感染的摸倣)を生じてーー組織が活性化し、困難が次々打破されていく、という英雄譚の図式が採用されがちです。しかし、本作はさにあらず、傑出した個人は1人も登場しません。あくまでも組織力によって困難が打破されて行くのです。

 前半では、縦割り行政が機能せずに関係者らが責任をなすりあうという、行政官僚制に乗っ取られた日本的な政治の欠点が、コミカルに描かれます。しかし、やがてゴジラの出現が未曾有の国難であることが共通前提になると、日本的な縦割り行政が、縦割り行政のまま正しく機能し始めるのです。これは何かを思い出させる。そう、弱点が長所だった時代もあった事実です。

 本作では、日本(人)の欠点として考えられている性格が、そのまま強みとして働いてゴジラという未曾有の国難を超克する力を生むのです。一口で言えば、強烈な「悲劇の共有」「難局の共有」がある場合に限り、日本のあの縦割り行政が「縦割り行政のまま、正しく機能し始める」ということです。だから愚昧な観客が、「僕らはこのままでいい」というメッセージを受け取るのです。

 戦争に於ては悪名高き大本営発表やセクショナリズムなど出鱈目な帰結をもたらした、総動員体制的な行政官僚制の暴走ですが、敗戦後から田中角栄の時代までは、「戦後復興&経済成長こそ国民の共通目標だ」という認識のシェアと「米国に逆らうことはできない」という認識のシェアを共通前提とすることで、同じ総動員体制的な行政官僚制が、高い遂行を示したのですね。

 1991年のバブル崩壊までの日本企業も、「会社の成長と発展こそが全社員の共通目標だ」という認識のシェアと「金儲けするには国際ルールに従う(逆利用する)しかない」という認識のシェアが、あまたの成長企業を生み出しました。トヨタ自動車しかり、松下電器しかり、八幡製鉄しかり。但しバブル崩壊後は、倒産を恐れる会社は遂行を維持する一方、政治は墜落します。

 「欠点を改めずとも、それがそのまま武器になる」というファンタズムは、ゴジラとの戦闘方法に於ても表現されています。例えば、無人新幹線や無人在来線に爆薬を積んだ攻撃です。これがゴジラ凍結作戦の成功に大いに貢献することになります。新たな都市交通システムを阻害するガラパゴス的に進化した日本の鉄道技術によって、逆に国難が打破されるという演出です。

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