日雇い労働者の街・釜ヶ崎は本当に“危険”なのか? 『さとにきたらええやん』に見る“お互いさま”の心

『さとにきたらええやん』レビュー

 作品の主要人物は3人の子どもだ。ひとりは小学生の少年。母親が育児に悩みを抱えている関係で彼はよくこどもの里にちょくちょく泊まりで預けられる。もうひとりは中学生の少年。ちょっとした障害を抱える彼は、家族とも同級生ともいざこざが絶えない。耐えかねて暴力的になってしまうことがあるちょっとした問題児だ。最後のひとりは、高校生の女の子。すぐそばに母親が住んでいながら、彼女はある理由からこどもの里に住まざるえない状況になっている。おそらく彼らの現状を前にしたとき、親を批判する人は少なくないだろう。でも、ただ批判していても何も始まらない。そのことを、こどもの里の職員は知っているかのよう。だから、とにかく来るもの拒まず、その人がどんな問題を抱えていようと、どんな国籍であろうと分け隔てなく、すべてをまず受け入れる。今どき、これほど他人に親身になって、おせっかいといわれるぐらい世話を焼く人間を私は久しく見たことがない。困った人がいたら手を差し伸べる。ひと昔前だったら当たり前だったかもしれないが今やどこか忘れ去られた、この人間の良心が「こどもの里」の日常にはあふれている。

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 まるで親代わりのような職員によって支えられた施設は、誰もがいつでも帰ってくることができる場所だ。その門はいつも開かれている。これこそが“ふるさと”という存在ではなかろうか? いつでも戻れる場所、自分を受け入れてくれる人がいる場所、心休まる自分の安息地があることが、人間にとってどれだけ生きる上で大切で大きな力になるのか、そのことをここに登場する子どもたちの姿は物語る。逆説的な見方をすれば、戻れるところもない、帰れる場所もない、頼るべきものをすべて失ったとき、社会と他人と接点がなくなったとき、人は“孤立”する。その先にあるものが悲しい末路になりうる可能性が高いことは想像に難くない。

 危険な街と揶揄される釜ヶ崎。でも、それは外にいる人間の勝手なイメージでしかない。ここには、いまどき珍しい強固な地域コミュニケーションが確立されている。困ったときはお互いさまの心がある。そして、ここを“ふるさと”という大切な居場所にする子どもたちがいる。そのことを本作は教えてくれる。これらに思いを馳せ、もし、この釜ヶ崎の街に「こどもの里」がなかったらと想像すると、ちょっとゾッとしてしまう。“ここにいる子どもたちはいったいどうなってしまっていたのだろう”と。

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 また、この作品で触れないわけにはいかないほど、重要な役割を果たしているのが、SHINGO★西成の音楽だ。彼は釜ヶ崎出身のヒップホップアーティストとのこと。その飾らない言葉の数々は、時に釜ヶ崎で生きる子どもたちの気持ちを、大人たちの気持ちを、そしてこの街の根底にある暖かさを代弁している。最後に、本作が見出した「こどもの里」と釜ヶ崎の良さと、街で生きる人へのエールを、ある意味、そのまま代弁している歌詞の一節を付記しておく。

「近所のおっちゃんに習った。ここではこうして生きなさい。ばかにしない、けなさない、キレない。人はひとりじゃ生きてけないやろ。自分を愛しなさい。人を愛しなさい。今を見つめなさい。未来を信じなさい。まちがったらすぐ謝りなさい」

(文=水上賢治)

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■公開情報
『さとにきたらええやん』
6月中旬よりポレポレ東中野、第七藝術劇場ほか全国順次公開
監督・撮影:重江良樹/音楽:SHINGO★西成
宣伝・配給協力:ウッキー・プロダクション
製作・配給:ノンデライコ
HPアドレス:http://www.sato-eeyan.com

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