菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第6回(後編)
菊地成孔の『アイアムアヒーロー』評:「原作を読まなきゃな」と思わせるんだけど、それが失敗なのか成功なのか誰か教えて。
まずは「原作読まなきゃな」と思わせられた
「原作を一切知らない人でも十分楽しめますよ」と自称する映画は過去1万本は下らないでしょう。
うち、その自称が詐称でない作品は、意外とこれが、少なく見積もっても70%ぐらいあると思うんですよね。
ワタシは(ちと古いが)『セックス・アンド・ザ・シティ』の原作であるテレビドラマを一本も観たことがないまま、『セックス・アンド・ザ・シティ・ザ・ムービー』を観ましたが、一秒も退屈しなかったし、ストーリーはすべて、スムースに理解できました。
つまり、「やりようによっちゃ出来る」訳です。「原作要らず」は。まあ、脚本がほとんどの鍵を握っているわけですが。
では、本作の原作漫画を、、、どころか、『週刊ビックコミックスピリッツ』を、、、どころか、日本の漫画雑誌全てを、もう30年以上手に取った事すらない(コンビニに、あんだけあるのに)ワタシの目に見えたもの、そこから導き出された推測を、以下、列記します。
1)本作は、20巻にして連載中である原作の、「僅か数巻だけを集中的に映画化したもの」では、どうやらなさそうだ。
2)本作は、映画用に、天衣無縫な設定変えは、ほとんど行われていなさそうだ(抜本的な省略が一つあるような気がするんだけど、これについては後述します)
3)何よりも、見ている最中ずっと「やっぱこれ原作読まないとな」と思わされた。
何故、原作を読まなければ、と思わされたのだろうか。
(1)は、本作が、まるで早送りスイッチを押しっぱなしにしているように、コマ送りで進んで行くように見えるからです。
「はいこのシーン入れないと物語破綻するから」「次このシーン入れないと説明不足になるから」「はい、ここは原作の名場面だから落とせないよね」といった、プレハブ方式というか、ユニット建築というか、全体は滑らかに組み上がってんだけど、結果、全部の部屋に(=ほとんどのシーンに)。
「これ、原作にはもっと深い書き込みがあるんだろうなあ」
と思わせてしまい、また、大変な努力家でもありそうな作り手側が、そうはさせじとしながらも、知らずそのことを既得権化し、原作を読んだ人。と、無意識的なアイコンタクトを交わしているように見え続けたからです(それは不思議なことに、全然嫌な気分にならなかったけどね。無意識的だからでしょうか)。
例えば、ヒロインであり天使である(何せ、人間とゾンビの混血にして、途中から人形のように全く動かず、主人公を優しく無垢に信じ続けるので)有村架純さんは、富士山に向かう(「高いところが安全らしい」と2ちゃんねるに書いてあるのを見た2人が)神社の軒先で、自分の好きな曲を、主人公に聞かせるために、「寄り添ってイヤホンの相合傘」をします(むせかえる童貞感→童貞の方をディスっているのではありません。純潔感のことを言い換えているのです)。これおそらく、原作の名シーンでしょう。
その際、有村さんの私物は、スマートフォン内臓の音楽ソフトではなく、懐かしのi-podです。うーんちょっと。「いやあ、未だにガラケー使ってる人いるじゃん」ではあんまり納得できない。
また、(2)ですが、主人公には、妄想癖というか、脳内の空想世界にアクセスする関門がかなり低い設定で、「一瞬妄想→現実に戻る」が、都合3回出てきますが、「3回で充分」とはとても思えません。それでは詰まらないからです。
主人公の「強い妄想癖」は、もっと重症で、ちょっとした瞬間に、つまり、<現実と同じぐらいの比率>で行われるぐらいが、物語の整合性と感動を高める筈です。ましてや、世界=リアルは、もう大変なことになっている訳です。
というのも、本作は
<漫画というアンリアルを商品にしたリアル世界(主人公はウダツの上がらない漫画家のアシちゃんです)の厳しさ>
↓
<そんなリアル世界がアンリアルなほどに崩壊してゆくリアル>
↓
<そして、アンリアルの世界への逃避ではリアルの保持すら無理な状況に追い込まれるリアル>
という、極めて現代的な、「妄想から現実への、命がけのジャンプ」つまりイニシエーションがテーマになっており、少なくとも情緒的な意味での感動の発生源はそこにしか設定されていません。
そういう意味で2時間でかなり3回は少ないですし、「原作では、もっと重症の自己沈潜型で、下手したら自分だけの妄想世界が(職業である漫画家として)あるぐらいになってんじゃねえの? でもそれ丁寧にやると、時間が足りないからアリバイとして最低限になっちゃったのかもな」と勘ぐらせてしまいます。
とはいえ、映画は有限時間の芸術なので
脚本文法上の「省略」は、基礎技術であり、なんでも全部説明してしまっては与太郎ですし、逆に、「原作読んでるから知ってるっしょ」的な省略もまた甘えん坊与太郎です。
そこそこ長尺で、なおかつスピーデイーな展開で全くダレさせない本作は、大体20分目ぐらいから「とにかく原作の有名場面を、過不足なく、ぽんぽん並べるだけでも大変そうだな」という風に見てきます。
などと書くと、「こんなもん、見たい絵と、聞きたい台詞を並べただけだよ」という、悪評用のクリシェを言っている様に思われるでしょうが、これは知恵のない人間が苛立った結果、つまり、半端な文句たれです。それだったら逆に話しは早い。
そもそも歌舞伎なんて全部そういう文化ですし、ポルノ映画がアダルトヴィデオに変わった瞬間も、それなりに芳醇な物語があった文化を「ストーリーなんか抜き、見たい絵を並べただけ」化であり、古語ですが、「やおい」というのは、それのアクティヴな実践でしょう。イージーにいうと、日本の伝統美なのよね。
ところが、ここが問題で、いっそアダルト動画や、同人誌のやおいに振り切ってしまえばよし、「原作を読んでない人も視野に入っている」上に、、、っていうか、劇場公開映画ですからね(笑)。
何も知らないままの類推なので危なっかしいことこの上ないですが、やっぱ歌舞伎以前からあった、「見たいシーンを庭石みたいに並べるだけで作品になる」という文化は、今や「二次創作する人たち」の既得権で、現在、クリエーターという者は、1次創作者として、2次創作者に素材を提供するという、ある意味屈辱的な立場を強いられます(ワタシは、日本映画の構造的弱体化は、1次創作者が、2次創作者がひれ伏すほどの高みを目指す勇気や覇気を失い、メンタルの根本に諦めのようなものが横たわってしまっているか、あるいは「そんな事実はない」と、抑圧しているのが主原因の一つだと思っています。要するに、2次制作者オタクさまの方が、日本の伝統に根ざしているので、近代の病から逃れやすい訳です)。
ここに、「見たい絵、聞きたい台詞を並べるだけ。は1次創作では恥もしくは禁忌」「しかし、小説のように、映画を物語の強度だけで水準を上げるのは非常に難儀(勢い<キャラ設定>が、それを全部請け負うことに)」そして「撮影を必要としない漫画というメディアに於いては、物語を書くこと難儀でないどころか、そこが作画強度と並ぶ、重要なファクターになるので、漫画に於けるストーリーテリングの技術が異様に発達した(しかも、小説と違って、目に見える萌え。という大変な栄養素が入っている)」
という、現状の固定がある、つまり、現代日本の実写映画は映画用オリジナル脚本の力が弱体化するように構造がクラッチされている訳です。
これってどうすれば良いの? 今で十分幸せならそれで良い。しかし、現状に満足しないのであれば、優れた脚本家の育成、天才の登場が待たれることになります(ワタシは現状は嫌でもないです→無慈悲なようですが、日本映画を観ないので&放っておけばオリジナル脚本の時代がくるかも知れないし)。
とはいえ大変な仕事なんだ
かといって、本作の脚本家(脚色家)の方が、適当な仕事をしてお茶を濁しているとは言いません。どこをどうまとめて繋げるか、映画だけ観る人の視線も意識しないといけない。
それよりも、問題は、そのフォーム(<漫画>が強すぎて、<その映画化作品>が、ウインウインのバイメディア化してしまう)でやっている限り「説明の過不足事故」が生じるのは不可避的だという現象の追求が重要化すると思われます。
説明の過不足
例えば、本作序盤、主人公と同棲中の恋人である、片瀬那奈さんが最初にゾンビ(本作内では「ゾキュン」。これは前述のi-pad、同様、原作のスタートがそこそこ昔だったことを、ワタシのような無知にも伝えてしまいますが、それほどの悪点にはなりません)化します。
そして、アパートの入り口で、最初のアクション、そして一番重要な「主人公、ゾキュンに噛むか噛まれるか」のシーンがあり、手に汗握る素晴らしい演技とカメラワークなのですが、なんでも噛み付くゾキュンが、安アパートの木戸に噛みつき、歯のほとんどを失うシーンに「歯が、、、、歯が、、、、」という主人公の台詞が重なります。
名優(演劇、テレビバラエティ、映画という3つのメディアを貫通する独自演技力とプランニングを持っているという意味で、昭和の名優に匹敵すると思います)大泉洋さんの高い演技力により、その台詞が邪魔だったり過度に説明的だったりする事は、巧みに隠蔽されます。
しかし、明らかにあれは過剰説明であり、実際は「ヒー」とか言ってるだけでも、否、むしろそっちの方が「片瀬ゾキュン、いきなり歯を全部失う→以降、大泉洋は噛まれてもゾキュンに感染していない」というストーリーテリング効果は大きいでしょう。
いちいち列記しませんが、ストーリーの基本ラインを観客に知らせるべく、序盤では説明過剰だと思ってしまうシーンやセリフが多いのですが、そうなると、またしても思ってしまう「原作ではどうなってるのかな?」
こうして<過剰説明>は「わかったよ。こっちはバカじゃねえんだ」「そこ省いた方が効くんじゃね?」という感情を起こしやすく<説明不足>の方は「これじゃわかんねえよ。ちゃんと書けよ」という感情を起こしますね(前衛映画やアートフィルムは別として)。
本作の後半は、説明不足が頻出し、例えば「ゾキュンは金属音が苦手で、クラシック音楽が好き」には、台詞的には一切の説明が無いのですが、「お、省略が効いてきた。良いぞ」と思えば思えるのですが、作品全体の「説明に関するアベレージラインがグラついている」ように見えてしまい、そのうち「いやあやっぱこれ、原作読んでる人向けになっちゃってるよ、力尽きたな(笑)」と感じてきました。