映画業界に生きる“いかがわしい人々”の愛嬌ーー『下衆の愛』に滲み出た映画愛を読む
そしてやはり、現在の日本の映画作りの現場というものの矛盾や皮肉を描いたブラックなコメディとして『下衆の愛』が成立している最も大きな要因は、主演の渋川清彦の放つ魅力である。いい年になっても世間から注目を集める映画に不平ばかり吐いて、ろくに作品も撮れてこなかったテツオは、“商業主義”に走って魂を売ることを毛嫌いしている。“俺は魂を売ってこなかった”と心の中で理由をつけて納得することで、彼は楽天的な態度の裏でプライドだけは守ってきていたのだろう。一方では、それは全く芽の出ることない自分の才能を慰めていた言い訳とも言える。しかしもう一方では、金儲けにあまり罪悪感も持っていないほかの登場人物たちとは異なる、純粋なまでの愚かしさが彼の中にあるとも言えるのではないだろうか。思うに、渋川の飄々とリラックスしていて親密感のある演技と、彼の持つ身体性こそが、本作を滑稽たらしめているのである。テツオは誰よりも軽薄な人物ではあるが、彼がなにを喋ろうと、長い手足でルパン三世がそのまま飛び出してきたかのような風貌と甲本ヒロトを彷彿とさせる屈託のない笑顔からは、人間臭い愛嬌とその純粋な愚かしさが滲み出ているのだ。
そのような渋川のいい大人でありながらも決して子ども心や遊び心を忘れていない“あんちゃん”的なキャラクター性によって、映画は業界のある種汚い側面を戯画して描きながらも、あくまでも楽天的なムードをまとっている。日本のインディーズ映画シーンであがく者たちの姿は、映画作りの世界に淫した負け犬たちのように映るかもしれない。しかし、ジョン・カサヴェテスやカート・コバーン、ラモーンズに憧れ続け、40歳になるまで夢を諦めきれなかったテツオには、愚かなまでのピュアな映画への信仰心が感じられる。いつまでもプライドだけは持ち続けていた諦めの悪い男が、ただひとりのヒロインを求め、それをかなぐり捨て土下座することは、冒涜してしまった映画そのものへの懺悔なのである。
彼らは、映画しか愛せないどうしようもない人間であり続けるのだろう。たとえその愛が報われなかろうと。
(文=常川拓也)
■公開情報
『下衆の愛』
2016年4月2日(土)よりテアトル新宿レイトショーほか全国順次公開
(C)third window films
配給:エレファントハウス
製作会社:サードウィンドウフィルムズ
宣伝:フリーストーン
2015年/日本/110分/カラー
公式サイト:www.gesunoai.com