『アーロと少年』はなぜ圧倒的リアリズムで“自然”を描いた? アメリカ西部劇との共通点から探る

 馬や牛など家畜の肌に、熱した「焼きごて」をじゅうじゅうと押し付け、カウボーイが自分の牧場の家畜だということを示す「焼印」をつける。自社の製品をトレードマークで表示する「ブランド(Brand)」という概念は、もともとこの「焼印」から生まれているという。家畜に苦痛を与えるため、現在では、この方法は動物への残酷な仕打ちとして糾弾されており、その慣習をとりやめた農家や、苦痛を軽減するように開発された、ドライアイスなどを利用する「凍結烙印」に変更した農家もいる。そこまでして家畜に印をつけなければならないのかという疑問も起こるが、これは開拓時代のアメリカ西部を含む、ワイルドな伝統文化であり、彼らにとって誇らしい生き方の証であったことも確かである。

 ピクサー・アニメーション『アーロと少年』は、「恐竜が絶滅しなかった世界」という設定で、知能を持って言葉を話し農作業や牧畜を営む恐竜と、いまだ進化の途上で四足歩行をしている人間との友情を描いた、少し風変わりな感動作だが、実際に見てみると、これが思いもかけず正統的な「アメリカ西部劇」の世界を受け継いでいるということが分かってくる。ワイルドな自然が広がるワイオミングを舞台に、農夫である大型草食恐竜のアパトサウルス、牛を追って生活をするカウボーイのティラノサウルス、牛泥棒や悪漢たち、そして名犬として扱われる人間の少年など、それぞれの恐竜や生き物に西部劇おなじみの役割が与えられている。その下敷きにされた西部劇のなかでも、多くの点で本作とつながりがあると思われるのが、アメリカを代表する名作西部劇『赤い河』だ。ここでは、両作品のテーマやスピリットについて考えながら、『アーロと少年』で描かれた物語と映像の意味に迫っていきたい。

 集団でディスカッションを長期間繰り返し、緻密な脚本を練り上げていくことで知られているピクサー・アニメーション・スタジオ。その長編16作目となる本作は、設定こそ複雑だが、気弱な少年アーロが危険な旅を通して成長していくという、王道的でシンプルな物語となった。アーロは極端に臆病な性格で、家の手伝いがうまくいかず、家族の中で疎外感を感じていた。彼は川に流されて遭難し、人間の少年と家までの道を探しながら、牛を追って暮らすカウボーイの生き方を学び、勇気を手にしていく。そして家の伝統である、困難な仕事を成し遂げた者だけに許されるという、農場にある石造りの穀倉に「足跡」をつけマーキングをするという目標を達成しようとするのである。

 

 もう一方の映画、ハワード・ホークス監督の西部劇『赤い河』のストーリーを紹介したい。ジョン・ウェイン演じる西部の屈強な男・ダンソンは、親を亡くして牛一頭だけを連れ荒野をさまよっていた少年マシュウを養子に迎え、牛牧場を経営する。マシュウは、ダンソンの名を示す「D」の焼印を見て、自分の焼印が欲しいとねだる。ダンソンは「今はまだ早い、稼ぐようになったらお前の焼印を牛に押していい」と言う。

 それから14年後、ダンソンは一万頭もの牛を、鉄道が通るミズーリに運ぶために、今では青年になったマシュウや、気のいいカウボーイたちとともに、州を越えた牛追いの大移動「キャトル・ドライブ」に出発する。ダンソンは頑固な性格と過去に受けた心の傷から、仲間に対し、ときに乱暴で非人間的な扱いをするようになる。命令に従わない仲間を縛り首にしようとするダンソンを見て、いまいち肝っ玉が小さく遠慮していたマシュウは、はじめてダンソンに反抗し対立する。そして、長い追跡と闘いの果てに、二人はついに和解し、互いを認め合う。マシュウはダンソンの「不屈の西部魂」を学び、ダンソンはマシュウの「他者への寛容さ」を学ぶ。ダンソンは新しい焼印のデザインを提案する。そこにはダンソンの「D」とマシュウの「M」が描かれていた。

 『アーロと少年』で描かれるのも父親との葛藤だ。アーロの父は、アーロの気の弱さを克服させるため、穀物泥棒である人間の少年を殴れと命令する。しかし、アーロは少年を殴ることができない。アーロは確かに気が弱く臆病だ。だが、だからこそ目の前の弱者に共感し、彼の立場に立って考えることができる。老練なカウボーイのティラノサウルス、ブッチは、アーロに「こわがってもいいんだ」とアドバイスする。それは、自分の勇気に溺れず、他者や他民族をおそれ尊敬することが本当の強さにつながるというテーマを裏付ける。それが結実するのが、アーロと少年が別の道を歩いていくシーンである。人間の少年は、アメリカ先住民の祖先であろう。ここでは、新大陸アメリカの入植者たちがやらなければならなかった姿勢が描かれているのである。親子二代の、古い開拓根性と、現代的な共感の力が合わさることで、より良い未来が作られていくのだ。この映画を観る子供たちは、そのような理屈までは考えないかもしれない。しかし、シーンひとつひとつを記憶することで、それを心で理解することができるはずである。それが言葉では与えることのできない、「映画」が持つ力だ。

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