犬と猫、映画の主役にふさわしいのはどっち? 古今の名作から考察

 現在公開中の『猫なんかよんでもこない。』を観てみると、まさにそのイメージに相応しい猫の姿が描かれる。ボクサーの夢を絶たれたうだつの上がらない主人公が、兄の拾ってきた猫の世話をしていくうちに、人間として成長していく姿を描いたシンプルな物語である。ここに登場する二匹の猫は、飼い主である主人公に突然トカゲを持ってきたり(劇中でも説明のある通り、猫は自分よりも下だと思う者に狩りの仕方を教えるためにこのような行動に出るらしい)、ひたすらわがままに振舞う。もっぱら「猫あるある」が描かれる作品ではあるが、猫の存在によって主人公が変化していくというドラマ性は、かなりわかりやすいものがある。

(C)2015杉作・実業之日本社/「猫なんかよんでもこない。」製作委員会

 しかし、このタイプのドラマ性が生じるのは決して猫だからというわけでもなさそうだ。『猫なんかよんでもこない』を観ながら、想起したのはチャップリンの名作『犬の生活』であり、そこでは浮浪者を演じるチャップリンが野良犬と出会い、共に行動する中で出会う女性と暮らすことを夢に見て、拾った財布を取り返す姿が描かれる。現代の映画で重視されがちな「主人公の成長」という点は皆無ではあるが、少なからず犬の存在が主人公の心情を変化させていることは間違いない。

 そう考えてみると、もしかしたら犬と猫で大きく変わることは何もないのかもしれない。『パリ猫ディノの夜』では大泥棒の相棒として忠実な働きを見せる猫が描かれるし、『猫が行方不明』も『ほえる犬は噛まない』も『ベートーベン』シリーズも、周囲の人間たちが奔走する群像喜劇を構成することができている。また、人間の寂しさを紛らわす役割も、『巴里の空の下セーヌは流れる』でたくさんの猫と共に暮らす老婆と、『アモーレス・ペロス』で犬と行動を共にする殺し屋からわかるように、どちらでも担うことができるのである。

 さらに、時には恐怖の対象として描かれることも珍しくなく、『呪怨』では不穏さの象徴のように黒猫が描かれる、古典的な演出がされる一方で、『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』のように直接的に犬が暴れ回る姿で恐怖が演出されることもある。アプローチの仕方は違えど、人間の近くに存在する両者だから成立することであって、これがあまり馴染みのない動物だと、もっと平坦な恐怖にしかならないのである。

(C)2015杉作・実業之日本社/「猫なんかよんでもこない。」製作委員会

 ということは、もはや作り手側が「犬派」なのか「猫派」なのかに委ねられてしまうのだ。走っているショットで画面にもたらされる躍動感は犬のほうが俊敏であり美しく見えるが、猫が走る姿も負けてはいない。そしてどちらも人間の予想の範疇を超えた動きを見せるのだから、映画をより映画らしく見せる効果を持っているのだ。もちろん、文化的かつ生物学的な条件で、どちらかのほうが相応しい場合は少なからずあるが、ニュートラルな条件下ではどちらでも映画は作ることができるのである。仮に101匹わんちゃんが101匹ねこちゃんになったとしても、映画であることは変わらなし、どちらでも愛らしいのである。

 今年はこの後も『世界から猫が消えなたら』や、韓国映画『ネコのお葬式』など猫を扱う映画が目立つのは、猫派にとってはとても嬉しいことである。もちろん犬の映画も、タイトルからはわからなくてもコンスタントに制作されているし、5月に行われるカンヌ国際映画祭では犬の演技を表彰するパルム・ドッグがあるなんて実に羨ましい(そのうちパルム・キャットもできないだろうか)。夏にはアニメーション映画ではあるが、ペットたちの姿を描いた『ペット』が公開されるので、「犬派」も「猫派」もそれ以外の派閥の人も楽しめることだろう。

■久保田和馬
映画ライター。1989年生まれ。現在、監督業準備中。好きな映画監督は、アラン・レネ、アンドレ・カイヤット、ジャン=ガブリエル・アルビコッコ、ルイス・ブニュエル、ロベール・ブレッソンなど。Twitter

■公開情報
『猫なんかよんでもこない。』
公開中
出演:風間俊介 つるの剛士 松岡茉優
監督・脚本:山本透  
共同脚本:林民夫 原作:杉作
主題歌:SCANDAL 「Morning Sun」
(C)2015杉作・実業之日本社/「猫なんかよんでもこない。」製作委員会
公式HP:http://nekoyon-movie.com/

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