マキタスポーツ、“エロのインフレ”が起きていた『みんな! エスパーだよ!』の現場を振り返る

「一番おもしろいのは監督だろうなって、現場でいつも痛感する」

 

——マキタさんは、日本の音楽シーン、主にいわゆるJポップに対して、これまで非常に批評的なスタンスでご自身のネタにしてきたし、本も書かれてきました。そんなマキタさんにとって、日本映画の世界というのがどのように見えているのかってことにすごく興味があるんですけど。

マキタスポーツ:うーん、日本映画に関しては、もはや自分はその外部からというより、出ている立場からしか言えないんですけど。やっぱり映画って興行じゃないですか。今、シネコンに映画を観にきてくれるお客さんのリテラシーを踏まえて語らないと、あまり意味がないかなって思うんですよね。もちろん、そうじゃない芸術性の高い作品もあっていいし、そういう作品の場所がだんだん狭くなっていることの問題というのもあるんですけど。ただ、まずは興行なので、「売れないとしょうがないな」という思いは、その内部にいる一人の実感としてありますね。ショッピングモールのシネコンで映画を観て、観終わった後にそこのフードコートでその映画について若い子たちがワイワイ喋り合う。そういう子たちにどう響くかってことが、やっぱり重要なんだなって。そういうゾーンにある作品に関わっていたいし、そういう作品をちょっとでもおもしろいものにしたいっていうのが、今の気分ですね。

——山下敦弘監督の『苦役列車』(2012年)で新人賞を複数受賞するなどした後、きっと方向性としては、渋い役を選んでやっていく方向性もあったと勝手に思っていたんですけど、今の話を聞いて納得しました。

マキタスポーツ:うん。やっぱり映画に対しては、Jポップを構造分析したりするっていうのとは、自分の感じ方、関わり方が全然違っていたので。もっと純粋なファン目線だったっていうか。正直、数年前まで、まさかこんなに役者の仕事をすることになるなんて思っていなかったから。なんとなく、ヌルヌルとその世界に入っていって、それなりに評価もいただいて、気がついたら映画を作る側の視点で周りを見渡すようにもなっていて。映画を撮影している現場だけじゃなくて、こうして宣伝部が動いて取材を受けたりすることも含めて、作品がお客さんに届いていく流れを体験しながらおもしろいなって思うんですよね。今の自分の映画に対するスタンスとしては、作品を選ぶとかではなくて、「縁」で動いているところがあって。映画ってものすごく「縁」で成り立っている世界だから、その中に入って、いろいろ吸収していきたいって思ってますね。信用されて、お願いされたら、それに100%で応えますっていう。世の中的には「またベタなことをやって」って誹りもあるかもしれないですけど、そんなの本当にごく一部のことですから。それよりも「いっぱいお客さんが入る映画ってどういうものなんだろう?」ってことを、内側から見ていくことの方がおもしろいし、そういう作品を少しでもよりおもしろいものにできたらってことを考えてます。

——音楽では、今や実演家としてバンドを組んでフェスに出たりもしているわけですが、いつか映画もご自身で撮ってみたいという思いは?

マキタスポーツ:あります。完全にそのつもりでいろいろ考えてます。

——あぁ、やっぱりそうなんですね。

マキタスポーツ:やっぱり役者って映画の中の一部でしかないですから。映画は監督のものだって、僕は認識してますから。だったら、一番おもしろいのは監督だろうなって。それは現場に入っていつも痛感することだし。監督って、作品を作ってる時は全然寝てなかったりするのに、それでも目は輝いてますから。それって、よっぽどおもしろいってことじゃないですか。そういう姿を目の当たりにすると、いつか自分も監督をやってみたいなって思いますよね。

——その場合、シリアスの方向、コメディの方向、どっちなんでしょう?

マキタスポーツ:両方やってみたいですけど、どっちがおっかないかって言ったらコメディですよね。自分の本職でもあるし、コメディ映画でお客さんを集めるのって本当に大変だと思うから。コメディだけじゃなくて、他にいろいろオプションがないと。

——『みんな!エスパーだよ!』でいうなら、原作とドラマの知名度、園監督のネームバリュー、活きのいい役者陣、エロ、といったところですよね。

マキタスポーツ:そうそう。いきなりそんなものを作るっていうのは、実績もなにもない自分には難しいから。自分の撮りたいものを撮るというところから始めるしかないと思ってますけど、将来的にはいろんな夢がありますよ。もしちゃんと実績を積んでいくことができたら、それこそ武さんが『座頭市』でやったように、いつか古典と言われるものに自分のやり方で挑んでみたくて。

——古典ですか! へぇー!

マキタスポーツ:最近、これはどんなジャンルでも思うんですけど、自分はよく自作自演の限界について考えていて。音楽にカバーがあるように、映画にももっとカバーがあっていいんじゃないかって。カバーって解釈じゃないですか。芸って、その解釈のところに出ると思うんですよね。僕は芸が好きなので。自作自演で、全部オリジナルでやることって、本来は誰もが許されているようなことじゃないのに、今の世の中には自分を表現できるようなツールが溢れていて、表現に対する欲求ばかりが高まっていて、結局みんなそれをどう表現していいかわからないみたいなことになっていると思うんですよ。そういう、自己表現の垂れ流しみたいなものに対してすごく危機感があって。バンドをやるようになって、本当によく思うんですよ。ライブハウスに出ているバンドが、「次の曲がラストです」とかもったいつけて言うから、どんな曲をやるのかと思って見てると、誰も知らないよくわからない曲をやってる(笑)。それだったら、カバーでもいいからビートルズが聴きたいよって。だから、落語の考え方に近いかもしれませんね。古典落語に新しい世代の落語家がチャレンジするような。そっちの方が健全なような気がしていて。

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