【追悼】村上龍:『69』の明るさと『愛と幻想のファシズム』の暗さーー1987年に送り出された名作の表と裏

先日逝去した村上龍の長編から、1作だけ薦めるとしたら何か。数ある作品を頭の中で戦わせていくと、決勝に残ったのは『69』と『愛と幻想のファシズム』だった。明るさと暗さの両極にあるこの2作、果たしてどちらを推すべきだろうか。ちなみにどちらも革命とテロリズムを描いている。
『69』の主人公、17歳の剣介は、仲間と一緒に学校をバリケード封鎖し、フェスティバルを企てる。村上自身の経験をもとに描いた青春小説。
舞台は、1969年の佐世保。当時の日本はまだ高度経済成長のさなかにあった。世界では、既存の秩序を揺さぶる動きが相次いでいた。キューバ革命を経て、ベトナムでは圧倒的な軍事力を持つアメリカが苦戦している。資本主義の世界にも終わりが来るのではないか。そんな見方もできた時代。パリでは5月革命、アメリカでは反戦運動が広がっている。反戦デモにミック・ジャガーが参加したと噂された。政治運動とロックやカウンターカルチャーが重なり合う時代。その革命の空気は、日本の地方都市の高校にまで届いている。いや、むしろ遠くの出来事だからこそ、一高校生でしかない剣介は居ても立ってもいられない。
改めて読み返すと、剣介は新聞部に所属し、8ミリカメラで映像を撮っていて、ロックバンドではドラムを叩いている。ペンと映画とロック。村上龍を象徴するものが完璧に揃っている。
『69』は、その時代を口が達者で軽薄な剣介を通して、ひたすらおもしろおかしく描いている。「こんなに楽しい小説を書くことはこの先もうないだろうと思いながら書いた」というのは、単行本の後書きの弁だ。ただ、韜晦を好むこの作者のこと。その楽しさの奥に、別の本音を読むこともできる。17歳の村上少年は、世界の状況に怒りを感じ、革命を少なからず信じていたのだと思う。韜晦とは、本心をあえて隠し、はぐらかすことだ。
さて、もう一方の『愛と幻想のファシズム』。この作品の連載は、バブル経済の時期に先立つ1984年から86年にかけて。日本に経済大国としての自覚が芽生えていた時代に、その近未来の没落を描くのだから意地が悪い。そのことがむしろ村上龍らしい。
経済危機に見舞われた日本にファシズムを掲げる政治結社・狩猟社が台頭する。率いる若きカリスマ党首、トウジがこの小説の主人公だ。トウジが理想とするのは、強い者が生き残る狩猟社会。弱者を保護する現代社会を否定する思想には、社会ダーウィニズムが色濃く表れている。1930年代のナチスの台頭を、近未来の日本に移し替えたような構図である。
相棒のゼロは、日本で映画の製作に失敗し、絶望する男(どこかで聞き覚えがある)。トウジにヒトラーを重ねるなら、ゼロはゲッベルスだ。ゲッベルスは映画や、照明と拡声装置を駆使した政治集会を宣伝に利用した。それがどのように近未来の日本に置き換えられたか。
狩猟社は、テレビCMやビデオ、コンピューターグラフィックスによるアニメーションを駆使して政治宣伝を行う。『69』の剣介が使うのは、ペンとカメラとロックだった。ここではそれが、1980年代にいうニューメディアに変わったのだ。
この小説は、『69』のような屈託のない青春小説とは真逆である。狩猟社はテロリズムとプロパガンダによって影響力を増し、トウジの革命は成功に近づいていく。前半には、スタートアップ企業が成功していくような高揚感がある。ただし物語は、革命が成功に向かうにつれ悲壮感を帯びる。初期からの仲間であるヤマギシは組織から切り離され、トウジを政治の舞台に引き込んだゼロも退場していく。社会を動かす力を手に入れるほど、ともに行動していた仲間が失われていくのだ。
明るいテロリズムと暗い革命。村上龍の他の長編にも形を変えて繰り返されてきたモチーフだ。その両者は、どの作品の中でも対峙する。
「明るいテロリズム」側を代表するのが『69』である。屈託のない楽しい小説。暗い革命側を代表するのが『愛と幻想のファシズム』で、こちらは重苦しく緊張感に満ちた小説である。だが、『69』の明るさの奥には社会への怒りを見出したいし、『愛と幻想のファシズム』の暗さの奥には、仲間と社会を動かす楽しさとその喪失という青春の要素を見出したい。両作品を表裏のものとして併せて読むことで、村上龍特有の韜晦や隠れた本音が見えてくるのだ。
村上龍は、この2つの小説を同じ1987年に世に送り出した。それが何より天才すぎる。




















