超神話と反革命の時代への並外れた批評――クリストファー・ノーラン『オデュッセイア』評

1 『ダークナイト』から『オデュッセイア』へ

Matt Damon (center) is Odysseus in THE ODYSSEY, written, produced, and directed by Christopher Nolan.

 クリストファー・ノーラン監督の新作『オデュッセイア』は紛れもない傑作である。ただしそれは、日本の各界の著名人たちが讃えるように「偉大な神話の再生」が果たされたからではまったくない。むしろ逆である。主人公のオデュッセウスはさまざまな神話の間を命がけで進んでゆくが、それは神話を再生するためではなく、神話の恐るべき洪水のなかで、ぎりぎりの仕方で生き延びるためなのだ。そこに、この映画が深い感動を与える理由がある。

 もとより、戦争からAIの異様な進化、相次ぐ気象災害に到るまで、今日の世界は天下大乱の予兆には事欠かない。2026年の『オデュッセイア』に、この危機に瀕した現代文明への批判が込められたのは明らかである。ノーランが自作の映画にこれほどはっきりと社会批評の要素を与えたのは、前作の『オッペンハイマー』を除けば、2008年の『ダークナイト』以来ではないか。

 思えば、荒廃したゴッサムシティを舞台として、正義のバットマンとならず者のジョーカーを交差させながら、観客に底なしの混沌を突きつける『ダークナイト』は、911後のアメリカ社会の寓話と呼ぶにふさわしかった。ノーランが見事につかみ出したカオスへの欲望は、それからまもなくドナルド・トランプ現象として実体化した。ジョーカーに魅了されることとトランプに魅了されることの間に、質的な差異はない――というより、トランプこそが最大のジョーカー(=悪いジョークを言い続けて事実を破壊する人間)なのだ。『ダークナイト』はまさにそのカオスへの鋭い感覚ゆえに、図らずも(重低音で進撃してゆくハンス・ジマーの音楽もあいまって)暴力と虚偽が乱れ飛ぶその後の政治状況のブースターになった一面もあっただろう。その果てに、ここ数年のアメリカでは、将来の内戦の可能性すらおおっぴらに語られているのだ。

 こうなると「ゴッサムシティ」にも比すべき現代世界の混沌と荒廃を、サブカル的に面白がっている場合ではない。『ダークナイト』は2008年の段階では社会への警告として先駆的であったが、その警告はすでに現実のものとなった。トランプを筆頭に、AIをゴーストライターとして自分好みの「事実」をオートマティックに創作する無数のジョーカーたちが、今や溢れかえっているのだ(実際には、人間のほうが早くもAI[Automated Intelligence?]のゴーストになりつつあると言うべきだろうが)。今日の事態は、もはやバットマン映画というフィクションには収まりきらない。そこに、古典のなかの古典である『オデュッセイア』が呼び出される必然性がある。

2 テックと政治が≪超神話≫を再来させる

ホメロス『オデュッセイア 上』(岩波文庫)

 もう少し、この映画に先立つコンテクストを考えよう。『オデュッセイア』はいわば「古代ギリシアにおける近代文学」とでも評せる例外的な神話――いってみれば≪神話からログアウトしようとする神話≫――なのだが、ノーランがそれを映画化したことは時宜にかなっている。というのも、神話への欲望は、今や政治とテクノロジーの中枢に公然と回帰しつつあるからだ(*1)。ビッグテックが天文学的な富を築き、AIがパンデミックとなって人類の思考に感染し続けるなか、一部のテック企業はまさに、世界の理の外から来る「力」の所有者として、自己を神話的に演出しているのである。

 この神話の回帰を露骨に示すのは、ピーター・ティールやアレックス・カープらが2003年に創業したIT企業のパランティア・テクノロジーズである。トールキンの『指輪物語』(1954~55年)に登場する魔術的な水晶の名にちなんだ社名からして、自らを現代の神話に仕立てようとする野心はまったく隠されていない。パランティアは高度な監視技術や莫大なデータを用いて、政府機関や軍事産業にも深く関わる一方(第二次トランプ政権下でその傾向が加速した)、その仕事の実体はつかみどころがない。その謎めいたところも含めて、パランティアは自社に神話的な神秘性を与え、アメリカという国家に密着しながら、権力のゲームを操作しようとするのだ。

 本来、力はモノではなく、所有もできない。権力者とは力を利用する一方、完全には所有できない力に翻弄される存在のことである。しかし、ヴァーグナーの『ニーベルングの指環』(1876年初演)からトールキンの『指輪物語』に到る≪近代の神話≫は、その力を「指輪」として物質化し、その争奪を驚くほど長大な物語のテーマとした。力が所有可能なモノと錯覚されるとき、その力は欲望の対象としてフェティッシュ化される。特にAIは、今や大国の政治家やビッグテックにとってまさしく21世紀の「指輪」のようなものだろう。AIがただの力ではなく、あらゆる力の源泉、つまり≪力を生み出す力≫と見なされるとき、AIフェティシズム(物神崇拝)はどこまでも肥大化してゆく。この欲望を意志によって止めることはできない。

 かたや、今日の相次ぐ戦争のなかで、政治も大仰な神話を製造するようになった。アメリカの一部の過激な福音派(キリスト教シオニストも含む)は、イランとの戦争をハルマゲドン(世界最終戦争)になぞらえ、キリスト教の終末論によってこの戦争を正当化している。彼らはトランプを世界に光明を取り戻す救世主に祭り上げる一方、トランプ自身もAIを使って、ローマ教皇やイエス・キリストに平然となりすました。キリスト教原理主義の「神話」のもとで、政治と戦争が神聖化されるという悪夢的光景が、われわれの眼前に広がっているのだ。

 こうして、現代のテックと政治は21世紀に神話を再来させた。その際に、たんに自国内で流通するだけのナショナルな神話では、グローバルな経済的・軍事的競争をとうてい勝ち抜けない。だからこそ、『指輪物語』や聖書の黙示録のように、特定の国家に紐づけられない≪超神話≫が浮上してくるのだ。今にして思えば、21世紀最初のブロックバスター映画が、『ハリー・ポッター』シリーズと並んで、ピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』(2001年)であったのは実に意味深長であった。「神話の再生」というならば、それは『ロード・オブ・ザ・リング』にこそふさわしい。

(*1)そもそも神話とは何か。聖書学者ルドルフ・ブルトマンの簡明な説明によれば「神話は、超越的な実在に、内在的な、此岸的な客観性を与えるものであるといってもよいだろう。神話は、世界的でないものに、世界的な客観性を与えるのである」。ブルトマン『キリストと神話』(山岡喜久男他訳、新教出版社、1960年)19頁。つまり、神話とは世界外の力(=超越的・彼岸的なもの)を世界内の言語やイメージ(=内在的・此岸的なもの)に変換するシステムである。今・ここの世界ができあがる以前の領域に、神話はアクセスする。古来、政治はこの神話の示す世界外の力を横領して、自己の支配を正当化してきた。

3 神話から脱出するオデュッセウス

 そう考えると、2023年の『オッペンハイマー』に続いて『オデュッセイア』を映画化したクリストファー・ノーランのセンスには感服せざるを得ない。そもそも、『ダークナイト』以来、ノーランの映画は「力」の問題に鋭く切り込んできた。『オッペンハイマー』が、原爆という≪超科学≫の力を創造しながらも内なる震動にたえずさらされる天才科学者にフォーカスしたのに対して、『オデュッセイア』は≪超神話≫が跋扈する世界から、命がけで家族のもとに帰還する主人公を描く――このオデュッセウスの旅路が今ほどタイムリーに感じられる時代は他にないだろう。

ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)

 繰り返せば、ホメロスの『オデュッセイア』(ホメロス以降の別人の作という説もある)は、古代における近代文学の頂点であり、それゆえに20世紀のモダニストたちをもたえず刺激してきた(ジョイスが『オデュッセイア』を『ユリシーズ』に変換し、ゴダールが『軽蔑』でフリッツ・ラングに『オデュッセイア』を撮影させたように)。ホメロスは、神話的な怪物の脅威にさらされながら、機知と弁舌によってその神話から脱出しようとする英雄を雄弁に語った。ゆえに、ホルクハイマー&アドルノの『啓蒙の弁証法』の大胆な解釈によれば、『オデュッセイア』は神話や迷信を解体する近代的な「啓蒙」の段階にまで、すでに到達していたとされる(*2)。この哲学者の説明はノーランの映画にもある程度当てはまるが、重要なところで異なってくる。

 まず、この映画の観客は誰でも、神話の幻想性がかなり抑制されていることに気づくだろう。浜辺によこたわるトロイの木馬(すばらしい造形!)に潜む戦士たちは、狭く密閉された空間で排泄物と海水に苦しめられる。人間を豚に変えてしまう魔女キルケ(サマンサ・モートンの好演!)は、原典の娼婦的なようすとは異なり、見た目は平凡な中年女性であり、男たちの暴力の被害者でもあることが示唆される。誰もが期待するであろうセイレーンの歌の場面でも、セイレーンたちの姿はあえてほとんど映されない。すさまじい暴風雨と雷鳴のなか船が裂ける場面になると、観客はその凶暴なスクリーンに目がくらみ、正視できないだろう。要するに、ノーランは『オデュッセイア』を神秘的なファンタジーではなく、あくまで自然の世界や人間の世界に属する「物理的な現実」として仕上げたのである。

THE ODYSSEY, written, produced, and directed by Christopher Nolan.

 さらに、本作のマット・デイモン演じるオデュッセウスは、鍛えあげられた弓の名手だが、決して偉丈夫ではない。彼の肉体はふつうの人間と同じく、あらぶる怪物や自然の猛威には太刀打ちできない。加えて、ホメロスのヴァージョンと大きく異なるのは、彼が難局を得意の弁舌で切り抜ける場面がほとんどないことだ。例えば、単眼の人食い巨人キュクロプスに名を問われたオデュッセウスが「誰でもない(ウーティス)」ととっさに嘘をついて後に来る危機を逃れる――これはいかにも民話的な頓智だが、ホルクハイマー&アドルノが述べるように近代的な精神を先取りしてもいる――のは、原典でも屈指の名場面だが、ノーランはそれをあえて省略した。この映画のキュクロプスとはまともな対話自体が成立しない。

 ノーラン版のオデュッセウスは原典と違って、ペテン(詭計)によって神話的なモンスターを出し抜いたり、冴えた智謀によって自然を支配したりするタイプの人間ではない。彼は(騒がしいジョーカー=トランプとは対照的に)口数が少ないし、自らの賢さや功績を誇ることもない。この映画ではむしろ、いかなる知能や詭計でも解消できないような苦難が、オデュッセウスを襲い続ける――要は、本作のオデュッセウスは「神話」の側にも「啓蒙」(知能)の側にも立たないのだ。特に、彼のオブセッションとなっているのは、自分の作戦によって生じたおびただしい犠牲である。トロイア戦争をはじめ、彼の行動は常に多くの兵士や部下を犠牲にしてきた。冥府にとどろく彼ら犠牲者たちの声は、決してやむことがない。それらすべての苦難を受け止めるのが、マット・デイモンの静かなたたずまいなのである。

Matt Damon is Odysseus in THE ODYSSEY, written, produced, and directed by Christopher Nolan.

 こうして、本作の神話世界は、華やかで壮麗なファンタジーとしてではなく、世俗的な現実として現れる。オデュッセウスはさまざまな世俗化した神話と遭遇しながら、ついにそこから脱出して家族のもとへと向かう――たとえその神話の世界が、平和で優しい女性カリュプソの島であったとしても、彼はそこを立ち去らねばならない。オデュッセウスの旅はまさしく波瀾万丈だが、それを支える動機はただ一つ、家族のもとに「帰る」というきわめてシンプルなものである。そして、このシンプルな(ある意味では理不尽な)動機の力に導かれて、彼は神話の洪水のなかを生き延びるのだ。

(*2)参考までに、ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』(徳永恂訳、岩波文庫、2007年)から引用しておこう。「多端な運命と対決しつつ、自我が唯ひとり生き抜いてゆく〔オデュッセウスの〕姿には、神話と対決する啓蒙の姿が浮彫りにされている。トロイアからイタケーへ至る漂泊の旅路は、肉体的には自然の暴力のまえに見るかげもないが、しかし自己意識に基づいてはじめて自己自身を作り上げてゆく「自己」が、さまざまな神話の間をくぐり抜けてゆく道程なのである」(108頁)。

4 超神話と反革命の時代への批評

 繰り返せば、現代のプロメテウスことオッペンハイマーが、誰も完全には制御できない科学の力を創造したのに対して、オデュッセウスは人間を篭絡する神話の力をかいくぐりながら、命がけで帰郷する。この二つの映画には、テックと戦争と神話の時代に対する明確な批評性がある。しかも、ノーランはテクノロジーに背を向けた隠者的な詩人ではなく、逆に、現代の映画製作に先端的なテクノロジーを導入してきたアイディア豊富で野心的なアーティストである(ちなみに、今回使用されたIMAXフィルムカメラの重量は130kgを超え、用いたフィルムは640kmに及ぶという)。特に『オデュッセイア』には、映画の蓄えた技術とアイディアをフル活用して、21世紀の苦境に立ち向かおうとする態度が貫かれている。

 してみるとイーロン・マスクが、ヘレネ役に黒人女優のルピタ・ニョンゴを配したノーラン版の『オデュッセイア』に反発し、本来あるべき『オデュッセイア』をAIで製作すると宣言したのは、実に興味深い反応である(なお、私はヘレネのキャスティングは面白いと思ったが、彼女の顔に傷をつけたのはやりすぎの感もある)。マスクはノーランの映画の矛先が、ビッグテックの神話にも向けられ得ることを、ある意味で誰よりも正しく理解していた。だからこそ、『オデュッセイア』を再びAIの技術神話で上書きすると宣言したのである。

 思えば、90年代半ば以降のインターネット革命には、知識を一部のエリートの社会に囲い込まず、民主化して協働を進めれば、人間は隷属から解放され、より賢く豊かになるという思想があった。それはまさに「啓蒙」のプロジェクトの一環だと言えるだろう。「知は力」(フランシス・ベーコン)であり、その知=力を皆でシェアすれば人間の自由はいっそう拡大するというわけだ。この種のテクノ・ユートピア主義は、さまざまに変奏されて語られてきた。

 しかし、現代のプラットフォーム資本主義は、この啓蒙のプロジェクトをむしろ新しい隷属のプロジェクトへと反転させた。今やAIの知=力はテック企業によって独占的に開発される一方、ユーザーはネットやAIを使う主人というより、ネットやAIを使わされてデータを差し出す奴隷に似てくる。人間を解放すると見せかけて、実際にはマイルドに隷属させる情報技術が、社会をコントロールするようになった。その延長で、今日のいわゆる「テック右派」になると、先端的な情報テクノロジーを民主主義の成長にではなく、独裁的な「CEO型君主制」の実現に奉仕させようとするのだ。国家と技術の「共生」を進めるイーロン・マスクもまた、自らを「テクノキング」と称して憚らない。

 私は先ほど、現代のテックと政治が≪超神話≫を再来させたと述べた。それは、インターネット革命(啓蒙のプロジェクト)がインターネット反革命(知=力の独占のプロジェクト)に反転したこととパラレルである(*3)。この逆風のなかで、ノーランの『オデュッセイア』が「神話の荒海を越えて、本来あるべき場所に戻れ」という強いメッセージを発したのは、やはり感動的だと言わねばならない。それはまさしく、超神話と反革命の時代への並外れた批評なのである。

(*3)クィン・スロボディアン&ベン・ターノフ『マスキズム』(樋口武志訳、飛鳥新社、2026年)が、この「デジタル反革命」の一つのルーツを、いわゆる「ペイパルマフィア」と関わりの深い南アフリカのアパルトヘイト政策に見出しているのは興味深い。「革命の後には必ず反革命が続く」(トロツキー)という警告も、あわせて思い出すべきだろう。

 なお、近年の映画で、啓蒙が悪夢に反転するさまを見事に描いたのがヨルゴス・ランティモス監督(ノーランやマスクと同世代である)の『哀れなるものたち』(2023年)である。エマ・ストーン演じる主人公は、マッドサイエンティストの男によって胎児の脳を移植された成人女性である。やがて冒険の旅に出た彼女は、社会の上層から下層までをかけめぐるうちに知的にも性的にもどんどん成熟し、自己を縛りつける多くの拘束を取り外した後に帰郷する。この自己解放の物語は、彼女自身がマッドサイエンティストになり代わり、悪逆非道な元夫の脳をヤギのそれに入れ替え、勝利者として優雅でサディスティックな笑みを浮かべたところで完成する――ここにはランティモスの悪意が容易に見てとれるだろう。というのも、この冒険する主人公は、最も高度に「啓蒙」されて知性の頂点に立ったとき、自然を徹底的に支配するラスボスに変身してしまうのだから。

 私がここでただちに連想するのは、啓蒙の鬼子マルキ・ド・サドの『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』である。「悪徳」を代表する女性ジュリエットの一行は旅に出て、スポーツでもするように残虐な性と殺人のゲームを規則的に続行する。ホルクハイマー&アドルノによれば、それはカトリシズムの文明を告発し、自らをとことん解放してゆく「啓蒙」の戯画であり、サドの非情さは啓蒙理性のダークサイドを暴露するものであった。ランティモスの『哀れなるものたち』はこのサド的テーマの変奏であり、ノーランの『オデュッセイア』と比較する価値があるだろう。

5 帰るべき場所はない、だが帰らねばならない

L to R: Mia Goth is Melantho and Anne Hathaway is Penelope in THE ODYSSEY, written, produced, and directed by Christopher Nolan.

 これまでにも、ノーランの映画にはしばしば「帰還」のモチーフが見られた。それが最もはっきり出ているのは、宇宙飛行士の父が時空を超えて娘のもとに帰る『インターステラー』(2014年)である。このSF映画の傑作から10年以上を経て、この種の帰郷物語の原型であるホメロスの『オデュッセイア』に立ち返ったノーランは、いってみれば自らの想像力のふるさとに「帰還」しようとしたのだ。

 その反面、私は今回の『オデュッセイア』からは『インターステラー』ほどのエモーショナルな家族愛を感じなかった(「親になることは、子どもの未来のゴーストになることだ」という『インターステラー』の思想は受け継がれているが)。本作のオデュッセウスは妻のペネロペや息子のテレマコスと再会したいという肉親の情以上に、「帰ること」そのものを――加えて死者を「弔うこと」を――自らの義務としているように思える。ただ、その帰郷には本質的な困難が立ちはだかっていた。ある意味では、神話のモンスターと闘うよりも、ふるさとに帰るほうが難しいのだ。

 一見すると、カリュプソの神話的な島からの「ログアウト」は、拍子抜けするほどあっさりと果たされる。しかし、オデュッセウスはすでにトロイア戦争以降、忌まわしい破壊に手を染めてきた。戦後の彼はもはや無垢ではない(『イリアス』が戦争文学だとしたら『オデュッセイア』は戦後文学であることに注意されたい)。だから、すんなりと帰郷し、正しい道に復帰することはできない。彼は自らの正体をテレマコスに明かしてからも、あくまで身をやつして「客」としてふるまい続ける。

 そもそも、本作では見知らぬ客人を歓待せよという「ゼウスの掟」(クセニア)が、登場人物たちの共有するルールとなっている。と同時に、客(もっぱら男たち)が主人(もっぱら女たち)に乱暴狼藉を働くさまも繰り返される(ペネロペの宮殿に居座る求婚者たち、魔女キルケの家で貪食する兵士たち)。客はときに歓待されるべき神であり、ときにろくでもないならず者である。それを事前に見定めることはできない。その一方、客はよそものであり、主人の機嫌を損ねればあっさりと屠られる。かといって、無礼な客を問答無用で追い出すのも、ゼウスの掟に背くことになるだろう。

 客は神聖にして卑俗である。あるいは強者にして弱者である。主人は客をときに歓待し、ときに容赦なく屠る。ノーランは客のもつ錯綜した性格を、多くの登場人物を通じてそのまま差し出した。『オデュッセイア』は客の映画であることによって、単純な帰郷物語を超えている。トロイア戦争後のオデュッセウスは、まさにこの世界の「客」として放浪し続けた。神話の荒波から脱出した後も、彼は自分の家によそものとして入り込むしかない。オデュッセウスには事実上、もう安住の地はないのだ。ゆえに、ならず者の求婚者たちを駆逐した後、彼はただちにペネロペとともに死者の弔いの旅に出ることになるだろう。

 それでも、断固として神話の世界から家に帰還しようとするオデュッセウスの冒険は、観客の心をうたずにはいられない。タルコフスキーに捧げられたルイジ・ノーノの晩年の楽曲≪進むべき道はない、だが進まねばならない≫になぞらえて言えば、『オデュッセイア』のテーマは≪帰るべき場所はない、だが帰らねばならない≫とでもまとめられるのではないか(ちなみに、ノーランは本作に影響を与えた映画として、黒澤明の『乱』と並んでタルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』を挙げている)。そのテーマに呼応するのが、ルドウィグ・ゴランソンのすばらしい音楽である。ゴランソンは、古楽器のアウロス(管楽器)、リュラ(小型の竪琴)、銅鑼などを駆使して、えも言われぬ響きを幾重にも重ねながら、未知の音楽を作り出した。オデュッセウスと同様、われわれにとっても、もはやふるさとは遥かに遠い。そのような映画の観衆を「客」として迎え入れるのは、古代とも現代ともつかない不可思議な響きなのだ。その意味を超越した響きは、人間を溺れさせるセイレーンの神話的な歌とは違って、新たな帰郷=冒険を開く力となるだろう。

■公開情報
『オデュッセイア』
全国公開中
出演:マット・デイモン、トム・ホランド、アン・ハサウェイ、ロバート・パティンソン、ルピタ・ニョンゴ、ゼンデイヤ、シャーリーズ・セロン
監督・脚本:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン
配給:ビターズ・エンド、ユニバーサル映画
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photo by Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.
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