【連載】つやちゃん「音楽を言葉にする」 第9回:「音楽を言葉にする」という仕事の再定義【後編】

 文筆家・つやちゃんが、インターネットやAIが発展してますます複雑化する現代の情報空間において、音楽を中心としたカルチャーについて「書くこと」「語ること」の意義やその技法を伝える新連載「音楽を言葉にする」。

 第9回は、前回に引き続き、「音楽を言葉にする」という仕事の再定義について。(編集部) 

第1回:皆が語りすぎている時代に、なぜ語るのか
第2回:誰に、どのような問いを投げかけるか
第3回:音楽を語るための論理展開──感覚を構造に変える【前編】
第4回:音楽を語るための論理展開──感覚を構造に変える【後編】
第5回:フォーマットに応じて書く――媒体別の最適化・トーンの設計【前編】
第6回:フォーマットに応じて書く――媒体別の最適化・トーンの設計【後編】
第7回:音楽ジャンルを理解するということ
第8回:「音楽を言葉にする」という仕事の再定義【前編】

対談・座談会

 次に、対談や座談会について考えてみましょう。この仕事をするまであまり意識していなかったのですが、雑誌でもWEBメディアでも音声コンテンツでも、対談や座談会といった企画は意外に多いです。論考やレビューと比べてカジュアルに読むことができるため、ニーズも高いのでしょう。それらが、文章を書くことや一人で話すことと大きく違うのは、そこに自分以外の人がいて、その人とのやり取りによって思考が動いていくことだと思います。自分がある意見を話すと、相手が予想していなかった角度から言葉を返してくる。それを受けて、こちらもまた考える。そうやって会話が連鎖していくうちに、一人で考えていただけではたどり着かなかった場所まで議論が進んでいくことがあります。これが、対談や座談会という形式の大きな面白さです。インタビューにも、もちろん同じような偶発性があります。ただし、インタビューには基本的に「聞く人」と「聞かれる人」という役割がある。それに対して対談では、両者がより対等な立場から意見を出し合うことが多いのが特徴です。座談会なら、さらに複数の視点が入り込んできます。誰かの発言によって別の人が何かを思いつき、それを聞いたまた別の人が話を広げていく。つまり対談や座談会は、他者によって自分の思考が動かされていく形式だと言えるでしょう。

 さらに、その動き方にもいろいろなものがあります。相手と意見が対立することもあるので、「自分はそうは思わない」と言われれば、ではなぜ自分はそう考えるのかを改めて説明しなければなららない。その過程で、自分でも意識していなかった前提や価値観に気づくこともあります。逆に、意見が一致することで議論が深まることもあります。「分かります。さらに言えば……」と相手が話を続けることで、自分一人では途中で止まっていた考えが、もう一段先へ進んでいく。対立によって論点が鮮明になることもあれば、共振によって議論の深度が増すこともある。そのどちらも、他者と話すからこそ起こることです。

 そのように、対談や座談会では話題が次々と移り変わっていくため、すべてのテーマについて同じ密度で話す必要はありません。むしろ重要なのは、会話のなかで「ここは自分がきちんと話したい」と思った瞬間に、しっかりと体重を乗せることです。少し長く話してみる。具体例を出してみる。なぜそう思うのかまで踏み込んで説明する。流れていく会話のなかで、どこに自分の重心を置くのか。その判断によって、対談のなかに自分の考えが立ち上がってきます。そのため、対談や座談会の前にも、やはり準備は必要です。ただし、ここでも話す内容を最初から最後まで決めておく必要はありません。むしろ用意しておきたいのは、自分がこのテーマについて何を大切だと思っているのかという核です。「自分はこの問題をこう考えている」「特にここが重要だと思う」「それはなぜなのか」といったことを、いくつか持っておく。実際の会話がどこへ向かうかは分からなくても、自分が大切にしていることが分かっていれば、その話題に近づいた瞬間にきちんと体重を乗せることができます。

 当然ですが、対談や座談会では話す技術も必要です。ただ、特にテキストの対談記事を読んで、「みんな、どうしてこんなに難しいことをよどみなく話せるのだろう」とおじけづく必要はありません。実際の会話は、完成した記事ほど整っていないことがほとんどだからです。記事では完璧に話しているように見えますが、実際にはほとんどの人がきちんと話せていません。言い淀むこともあれば、途中で言い直すこともある。うまく説明できず、同じことを何度か繰り返すこともあります。動画や音声の場合は、気になる部分を削ることはできても、基本的には収録した発言そのものが完成形に近いものになります。一方、テキストでは、実際に話した内容をもとに、あとから語順を整えたり、説明を補ったり、より正確な言葉へ修正したりすることが多いです。もちろん、まったく話していなかった主張を後から差し込むと対談そのものを作り変えることになってしまいますが、その場で話そうとしていたことを、あとからより正確な言葉に整えることはできる。完成した対談記事には、そうした編集のプロセスも含まれているので、必要以上に完璧に見えるのです。だから、対談や座談会に臨むとき、最初から完成された文章のように話そうとする必要はありません。それよりも重要なのは、相手の話をきちんと聞き、そこから自分の思考が動くことを楽しむこと。そして、自分にとって大切な論点が現れたときには、「自分はこう思う」ときちんと意見を提出することです。

審査員・アドバイザリー

 音楽について言葉にする人が担う仕事として、もう一つ触れておきたいのが、賞やアワード、オーディションなどにおける審査員やアドバイザリーです。世の中には、公的団体や企業、メディアが主催するものから、地方自治体によるものまで、さまざまな賞や選考企画があります。音楽文化の振興そのものを目的にするものもあれば、音楽の力を使って地域や別の文化を盛り上げようとするものもある。正しく機能すれば、新しい才能に光を当てたり、まだ知られていない音楽を広く届け、シーンの活性化につなげることができます。そう考えると、日頃から音楽について考え、話したり書いたりしている人が、こうした場に参加する意義は大きいと思います。ただし、賞やアワードには、人や作品に価値を与える力があるからこそ、注意も必要です。選ばれたことがむやみに権威化されたり、賞そのものが本来とは異なる目的に利用されたりすることもあり得るからです。だからこそ関わる側も、誰が何のためにその賞を運営しているのか、どんな基準で選考するのか、その過程にどの程度の透明性があるのかを理解しておく必要があります。審査に参加することは、自分の判断や批評眼をその賞へ貸すことでもあるからです。

 わたし自身、これまでさまざまな賞やアワードに関わってきましたが、その仕事には大きく二つの役割があると感じています。一つは、実際に候補者や作品を比較し、選ぶ審査員の役割。もう一つは、その賞の方向性や候補者の選定について意見を出す、アドバイザリーとしての役割です。

 まず審査員について考えてみましょう。わたしが携わってきたものとして、たとえば『ラップスタア』や『NEXT R&B』といったオーディション企画がありますが、こうした仕事をすると、普段とは少し違った形で音楽を見ることになります。短期間に数百、数千というパフォーマンスを続けて聴くからこそ、一人ひとりを個別に聴いているだけでは分からなかった、同時代の大きな傾向が見えてくるのです。たとえば『ラップスタア』の審査をしていて興味深かったのは、数百人のラッパーを続けて見ていると、それぞれが別々の地域で活動しているはずなのに、表現がいくつかのスタイルへと自然に分かれていくことでした。誰かが示し合わせたわけではない。それでも、ビートへの乗り方、フロウ、声の使い方など、同じ時代を生きる人たちの表現には、いくつかの共通した型が現れてきます。大量の表現を一度に見ることで、いまのシーンにおけるある種の平均値や潮流が、急にはっきりと見えてくるのです。

 そのなかで審査する際には、少なくとも二つの見方が必要になります。一つは、それぞれのスタイルのなかで、どれだけ高い完成度に達しているかを見ることです。すでにある程度存在する表現の型/スタイルであっても、そのなかで技術や表現力が突出していれば、きちんと評価することが必要だと思います。一方でもう一つ、既存のいくつかのスタイルには収まらない、まだうまく分類できない表現が現れることがあります。もちろん、単に基礎的な完成度が足りないことと、既存の基準からはみ出した新しさは区別しなければなりません。それでも、十分な力を持ちながら、いまある物差しでは測りきれない個性が現れたときに、それを見つけて光を当てることも審査員の重要な役割でしょう。つまり、審査にはある程度の基準を自分の中に持つことが必要であると同時に、その基準では測れないものを発見する感覚も必要なのです。既存の基準に従って点数をつけるだけなら、新しい表現はいつまでも評価できません。かといって、新しければ何でもよいわけでもない。いまある表現の完成度を正確に見ることと、そこからはみ出す次の可能性を見つけること。その両方を行き来する必要があります。

 さらに、そこで選ばれた人たちは、単にオーディションの勝者や候補者というだけではありません。次の音楽シーンを考えるうえでの重要な手がかりでもあります。彼らはどこを拠点に活動しているのか。周囲にどんな仲間がいるのか。どんなコミュニティを形成し、どんな価値観を共有しているのか。個人だけを見るのではなく、その人がどこから現れてきたのかまで追っていくと、次の文化がどの場所から立ち上がろうとしているのかが見えてくることがあります。そういう意味では、審査の仕事自体が、同時代の音楽を大量に定点観測する機会にもなります。

 一方、アドバイザリーでは、また少し違った視点が求められます。わたし自身、『Forbes JAPAN 30 UNDER 30』や『APPLE VINEGAR -Music Award-』、『Rolling Stone Japan Future 25』などで選考や推薦に関わってきましたが、ここで何より重要なのは、その賞がそもそも何のために存在しているのかを理解することです。音楽に詳しくない人にも新しい才能を届け、文化の裾野を広げようとしているのか。これからシーンの一角を担うコアな存在を見つけようとしているのか。音楽的な革新性を重視するのか、社会への影響力まで含めて考えるのか。目的が違えば、当然、選ぶべき人も変わります。ただ自分が好きなアーティストや、自分が最も優れていると思う作品を挙げればよいわけではありません。これは、現在のように音楽を取り巻く価値観やコミュニティが細分化している時代には、特に重要です。ある賞では非常に高く評価されるアーティストが、別の賞ではほとんど評価されないこともあるでしょう。しかし、それは必ずしもどちらかが間違っているということではありません。それぞれの賞が社会に対して異なる役割を持ち、異なる問いを立てているのであれば、評価が違って当然です。だからこそアドバイザリーとして関わる際には、自分自身の価値基準を持ちながら、一度そこから離れることも必要になります。自分としてはそれほど好みではなくても、その賞の目的に照らせば重要な存在かもしれない。反対に、自分がとても好きなアーティストであっても、その賞が果たそうとしている役割とは合わない場合もある。自分の物差しを持つことと、自分の物差しだけで測らないこと、その両方が求められるのです。

 こうした仕事に関わっていると、そもそも批評眼とは何なのか、といった問いについても考えさせられます。批評眼が鋭いということは、あらゆる音楽を一つの基準で正確に順位づけられることだけではありません。むしろ、いま何を見ようとしているのか、その場では何を評価する必要があるのかによって、見る角度や物差しを変えること。そして同時に、その物差しからこぼれ落ちているものがないかを疑うことです。音楽を言葉にする仕事を続けていると、自分なりの価値観や評価軸は当然育っていきます。しかし、それを唯一の正解にしてしまえば、見えるものはかえって少なくなる。複数の批評眼を持ち、目的や文脈に応じて使い分ける。そのうえで、ときには既存の物差しそのものを疑ってみる。審査員やアドバイザリーという仕事は、誰かを選ぶ仕事であると同時に、自分自身の批評のあり方を問い直し、その精度を鍛える仕事でもあるのだと思います。

専門誌の外で書く

 音楽について書く仕事は、音楽専門メディアだけにあるわけではありません。ファッション雑誌やライフスタイルメディア、さらには新聞や週刊誌をはじめとする一般メディアから音楽についての原稿を依頼されることもあります。そして経験上、こうした媒体で音楽について書くことは、音楽専門メディアでの執筆とはかなり違う仕事だと感じています。一番大きな違いは、音楽専門メディアでは「音楽そのもの」がテーマとして成立するのに対して、一般メディアでは必ずしもそうではないことです。たとえば音楽専門誌なら、新作についてレビューする、あるアーティストについて論じる、というだけで企画になります。しかしファッション誌やライフスタイル誌では、「この音楽を何とつなげれば、この媒体の読者にとって面白くなるのか」というところから考える必要がありますし、そもそも編集部からはそういった依頼が来ることが多いでしょう。

 実際、わたしが近年受けてきた依頼もさまざまです。ライフスタイル誌から「現在のポップスターをフェミニズムの視点から国別に挙げ、その傾向をまとめてほしい」と依頼されたこともあれば、女性ファッション誌から「ファッショナブルなステージ衣装をいくつか挙げ、それがアーティストの音楽とどのように関係しているのか論じてほしい」と依頼されたこともあります。さらには新聞から、「あるアーティストの歌詞をきっかけに話題になった同性婚について、見解を論じてほしい」と依頼されたこともあります。こうした仕事では、音楽をさまざまな角度から捉え直す必要に迫られます。政治、ジェンダー、ファッション、あるいは社会論、世代論、歌詞論、ヒットチャート、SNS、消費行動など、切り口はいくらでも考えられるでしょう。ポイントは、音楽について知っていることをそのまま書くのではなく、企画に合わせて、自分が持っている知識や視点を組み替えることです。その意味では、音楽専門メディアとは少し違った批評の力が求められます。たとえば、あるアーティストがどんなジャンルの影響を受けているのかを説明するだけでなく、その歌詞にはどんな価値観が表れているのか、なぜこの曲がこれほど広く支持されているのか、なぜいまこのアートワークを選んでいるのかと考えていく。音楽そのものを深く掘るだけではなく、音楽を別の座標軸に置き直す力が必要になるのです。

 もう一つ重要なのが、専門的な知識を、音楽に詳しくない人にも分かる言葉へ変換するスキルです。音楽専門メディアであれば当然のように使えるジャンル名や専門用語も、一般メディアでは読者に伝わるとは限りません。だからといって、内容まで簡単にすればいいわけではない。書き手の側ではジャンルの歴史やシーンの動向まで理解したうえで、それを専門用語に頼らず説明する必要があります。知識を減らしていくというよりも、専門性を見えなくするような技術が必要なのだと思います。

 そして、こうした仕事の面白さは、自分では思いつかなかった問いを編集者から渡されることにもあります。「この作品について書いてください」ではなく、「音楽とマーチャンダイズの関係について考えてください」「この歌詞を社会の変化と結びつけて考えてください」といった問いがやってくる。その問いを受け取って、自分がこれまで蓄積してきた音楽の知識を別の形へ組み替えていく。すると、自分自身もそれまでとは違った角度から音楽を見ることになります。わたしの場合、音楽専門メディアの比較的定型化された企画よりも、むしろそういった依頼の方を面白く感じます。毎回、違う筋肉を使って音楽について考えることになるからです。ただし、定型がないぶん、仕事としての難易度はむしろ高いことが多い。これは実際にやってみて驚いたことですが、音楽専門メディアで書く場合、ある程度は「この人に批評を書いてもらう」という前提で依頼されているため、事実誤認や大きな論理破綻などがない限り、原稿に赤字が入ることはほとんどありません。ところが一般メディアでは、必ずしもそういったニーズのもとで呼ばれているわけではない。企画を実現するための一人のライターとして依頼されている場合も多く、編集者の側には、その媒体の読者、ページ全体の構成、企画の狙い、文章のトーン、文字数などについて、かなり具体的なイメージがあります。そこから外れていれば、文章としてどれだけよく書けていても修正が入る。わずか数百字の原稿が赤字でいっぱいになったり、何度も出し戻しを重ねたりすることもあります。時事性に応じた原稿が必要なため、依頼から一、二日で仕上げなければならないことも珍しくありません。だからこそ自分としては、一般誌やファッションメディアで書くことによって、かなりライティング力を鍛えられた実感があります。

 ここで分かってくるのは、「良い文章を書くこと」と「良い仕事をすること」は、必ずしも同じではないケースもあるということです。自分として納得できる批評を書くだけでは足りない。媒体が何を伝えようとしているのか、編集者がどんな企画を設計しているのか、その先にどんな読者がいるのかを理解し、その条件のなかで自分の専門性を最大限に生かす必要があります。そう考えると、ファッション誌やライフスタイル誌、一般メディアで音楽について書く仕事には、少なくとも二つの翻訳があると言えるかもしれません。一つは、音楽をソーシャルイシューや人種、ジェンダーといったあらゆる別の領域へとつなぐ翻訳。もう一つは、自分が持っている専門的な知識を、その媒体の読者が理解できる言葉へと変える翻訳です。

 音楽について詳しくなることは、前提としてもちろん大切です。しかし専門性とは、専門領域の内側だけで詳しく語れることだけではありません。その知識や視点を持ったまま、どれだけ遠くの領域まで行き、そこで新しいつながりを見つけられるか。そういった一般のメディアで音楽について書くことは、書き手自身の専門性を試し、同時にそれを広げてくれる仕事でもあるのだと思います。

企画・監修

 次に、企画や監修について考えてみましょう。音楽について書いていると、「原稿を書いてください」だけではなく、「このディスクガイドについて監修をしてください」といった依頼や、「企画そのものを一緒に考えてください」といった相談を受けることがあるかもしれません。企画と監修は近い仕事ですが、求められる役割には少し違いがあります。企画では、「何を、どう見せれば面白くなるか」を考えることが中心になる。いま何を取り上げることに意義があるか、どんな切り口なら読者の興味を引けるか、誰と誰を組み合わせれば新しいものが生まれるか――専門知識だけでなく、編集的な発想や、受け手が何を面白いと思うかを想像する力が必要です。一方、監修では、より専門家としての知識や判断が期待されます。企画の方向性に対して、重要な作品や人物が抜けていないか、歴史的な説明は正しいか、そのテーマを捉えるうえでどんな文脈が必要か。場合によっては作品や人物を選定し、企画全体の精度を担保する。ただ、実際の仕事では、両者が重なることも多くあります。監修者が企画段階から参加することもあれば、企画者が専門的な判断まで担うこともある。とはいえ、あえて分けるなら、企画は専門性を外へ開き、面白い形にして届ける仕事である一方で、監修は専門性を深く使い、内容の厚みや精度を支える仕事と考えると分かりやすいと思います。

 その点、監修の仕事は知識がものをいうので、分かりやすい。一方、企画の仕事は答えらしい答えがありません。特に一般メディアや文芸誌、ファッション誌、ライフスタイル誌では、企画するにあたってもその内容はさまざまです。「巻頭特集をネタ出しの段階から一緒に考えてほしい」というぼんやりとしたものもあれば、「人種問題と音楽という切り口で企画テーマを考えてほしい」といった、やや方向性が決まった依頼もあります。さらに、企画の内容だけではなく、執筆者やイラストレーター、フォトグラファーの選定まで編集部と一緒に行う場合もあります。こうした仕事では、原稿を書くときとは少し違った頭の使い方が必要になるでしょう。たとえば「人種問題と音楽」というテーマが与えられたとして、関連する作品をいくつか選ぶだけなら、それほど難しくないかもしれません。ある種の教科書的なリストは、すでに世の中にあるからです。しかし、企画として必要なのは、その一歩手前にある「人種問題と音楽の何を、いま取り上げるべきなのか」という問いを考えることです。歴史的な変遷を見るのか。ジャンルが形成されてきた過程に注目するのか。現在のポップスターの表現から考えるのか。問いが変われば、選ぶ作品も、話を聞く相手も、ページの構成も変わります。つまり、企画とは、単に詳しい人が情報や作品を選ぶ仕事ではありません。「何を選ぶか」より前に、「どう見るか」を決める仕事でもあるのです。

 そして、しつこく繰り返しますが、ここでも重要になるのが批評の視点です。批評を書くとき、わたしたちは一つの作品だけを見ているわけではないでしょう。作品と作品を比較したり、過去と現在をつないだり、音楽と社会の変化を重ねたりしながら、そこにある意味を考えます。企画においても、基本的には同じことをしています。ただし、それを必ずしも文章だけで行うわけではありません。あるアーティストと別のアーティストを同じ企画で取り上げる。そこに社会学者のインタビューを入れる。さらに別のページでは若いミュージシャン同士に話してもらう。写真を誰に撮ってもらうか、イラストを誰に描いてもらうかまで考える。一つひとつは別々の記事やビジュアルでも、それらをなぜ一つの特集のなかに置くのかという選択には、企画をつくる側の考えが表れます。

 そのためには、目の前の誌面をどう完成させるかという実務だけに集中しすぎないことも大切です。企画を進めていると、「あと何ページ必要なのか」「誰に原稿を頼むのか」「締切までに何を揃えなければならないのか」といったことに、どうしても意識が向きます。しかし、ときにはそこからふっと目線を上げて、世の中を広く見渡してみる必要がある。いま何が流行っているのか。それだけではなく、なぜ人々はいまそれに惹かれているのか。数年前と比べて何が変わったのか。その背後でどんな価値観の変化が起きているのか。まだ名前はついていないけれど、離れた場所で同じような現象が起こり始めていないか。そうやって個々の作品やアーティストから少し離れて眺めてみると、それまでは無関係に見えていたもののあいだにつながりが見えてくることがあります。

 たとえば、複数のアーティストに同じようなファッションや言葉遣い、音楽的な傾向が現れているとします。それを単に「最近これが流行っている」と紹介するだけで終わらせず、なぜ同じような表現がいま同時に現れているのかを考えてみる。そこに世代の価値観や社会の変化が見えてくれば、それ自体を一つの企画にすることができるでしょう。個々の現象を観察し、離れているもののあいだにつながりを見つけ、まだ名前のない動きに輪郭を与える。これは、普段批評を書くときに使っている力とかなり近いものです。

 だからこそ企画において、そして監修においても、音楽について深く知っているだけでは十分ではありません。音楽産業の外にも目を向け、さまざまな領域――政治、経済、アート、映画、文学、広告、SNS、社会の動きなど――を見ながら、自分が音楽のなかで感じている変化が、より大きな時代の変化とどうつながっているのかを考える。音楽批評で培った観察力を、世の中を読むために使う必要があります。こう考えてみると、批評とは必ずしも文章を書く行為だけを指すものではないということが分かると思います。何を選び、何と何をつなぎ、どんな問いのもとに並べるかにも、批評は宿る。自分では一文字も書かないページであっても、問いをつくり、人を選び、作品を組み合わせ、そこに意味を与えることはできます。企画や監修とは、文章ではなく、企画そのものを使って音楽について考え、語る仕事でもあるのです。

コンセプトメイキング/コンサルティング

 さて、ここまでは、すでに音楽を語り/書く仕事としてある程度認識されているものについて考えてきました。ここからは少し範囲を広げて、まだ一般的にはライターの仕事だと思われていないかもしれない領域について考えてみたいと思います。

 その前に、そもそも批評という能力を、社会のどこで使うことができるのかを再度イメージしてみましょう。これまで見てきた仕事では、最終的な成果物は文章か発話でした。レビューを書き、インタビューを記事にし、対談やラジオで話す。けれど、批評の本質をもう少し分解してみると、それは必ずしも文章を書くことだけに閉じてはいません。対象を仔細に観察し、そこにある違いや特徴を見つけ、過去や現在の文脈に置き、その意味や価値を発見し、言葉を与える。そうした一連の作業こそが、批評の大きな部分を占めています。だとすれば、その能力の出口が記事や原稿、音声や動画コンテンツだけである必要はありません。見つけた価値を企画に変えることもできるし、作品づくりへ返すこともできる。誰かの活動の方向性を整理したり、まだ形になっていないものに輪郭を与えたりすることにも使えるでしょう。とりわけ生成AIによって、一定水準の文章を作ること自体のハードルが急速に下がっている現在、むしろ価値が高まっているのは、何を発見し、それをどう意味づけるかという部分です。そう考えると、音楽について語り/書くなかで培ってきた批評性や言語化のスキルは、従来のライティングという職域の外にもかなり広く応用できるはずです。

 その一つが、アーティストのコンセプトメイキングやコンサルティングです。わたし自身、近年こうした仕事に関わることが増えてきました。ただ、最初から「ライターの仕事を広げよう」と考えていたわけではありません。むしろ当初、そういった形でアーティスト側に介入するのは、批評視点を応用するどころか批評性を失う行為であると思っていました。

 きっかけは、数多く行なってきたインタビューです。アーティストへの取材を重ねていると、驚かされることがたくさんあります。作品を聴いて外側から想像していたことと、本人が考えていたことがまったく違う。「そんなことを考えていたのか」「そうやってこの作品は作られていたのか」と驚愕することが何度もありました。そして、そうした経験を重ねるうちに、もう一つ気づいたことがあります。それは、アーティストの内側にあるものと、世の中から見えているもののあいだには、ときに大きな隔たりがあるということです。これは考えてみれば当然なのかもしれません。アーティスト自身にとって当たり前にやっていることが、外から見ればとても特殊なことかもしれない。本人がそれほど重要だと思っていない部分に、実はその人にしかない魅力が宿っていることもある。反対に、本人が新しい挑戦だと思っていることよりも、ずっと以前から無意識に繰り返していることの方に、その人らしい独自性が表れていることもあります。作品を作っている本人やチームだからといって、自分自身の価値を最もよく理解しているとは限らないのです。そう考えると、インタビュアーという立場は少し特殊です。作品を聴き、過去作やシーンとの関係を考えるという意味では、アーティストを外側から見ています。しかし取材では、制作の背景や本人の考えを詳しく聞くことができる。つまり、外から見えているアーティスト像と、その内側にあるものの両方に触れることができるのです。

 わたし自身、そうした取材を繰り返すうちに、インタビューが終わったあとまで話し込むことが増えていきました。「むしろ、あなたの本当の面白さはここにあるんじゃないか」「今回やろうとしていることは、こういうことなんじゃないか」「だったら、もっとそこを前に出した方がいいんじゃないか」と、思わず熱く話してしまう。そして原稿でも、自分が発見したそのアーティストの魅力をできるだけ言葉にしようとする。ただ、そこで少しずつ、もどかしさも感じるようになりました。どれだけ「この人の本当の価値はここにあるのではないか」と考えても、執筆者としてできるのは、基本的には完成した作品について後から話したり書いたりすることです。もちろん、それ自体にも大きな意味がありますが、それでも、「もし、この考えを作品が完成したあとではなく、作っている途中で伝えたらどうなるのだろう」と考えるようになりました。それは、ときに思い上がりかもしれません。自分の読みが間違っている可能性もあります。それでも、作品を聴き、本人の話を聞き、過去の活動や現在のシーンまで見渡したとき、「この人の価値はもっと別のところにあるのではないか」「ここを鮮明にすれば、もっと面白くなるのではないか」という思いが、ふつふつと湧いてくることがありました。

 そうしたことを繰り返しているうちに、今度はアーティスト側から相談を受けるようになりました。「自分たちのコアにある価値を一度整理して、言葉にしてほしい」「それを今後の制作やコミュニケーションのコンセプトにしたい」。そこで初めて、それまでインタビューや批評のなかでやっていたことを、原稿ではなく、アーティスト自身の活動へ返していく試みが始まりました。具体的には、過去の楽曲やビジュアルを見直し、本人たちと話しながら、「このアーティストにしかない価値は何なのか」を探していく。これまでの作品に繰り返し現れているものは何か。現在のシーンのなかで、どこが独自なのか。本人は何に惹かれ、世界をどう見ているのか。そうしたものを行き来しながら、まずはコアにある価値を言葉にする。そこから、アーティストが世界に対してどんな役割を担う存在なのか、どんなコンセプトで表現していくのか、どんな世界観やトーンを持つのかへと展開していきます。そして、その言葉を起点に、楽曲、映像、アートワーク、SNS、ライブなど、それぞれの表現をどうつないでいくかを考える。場合によっては複数の楽曲を一つの物語として位置づけ、ライブまで含めてその物語を展開していくこともあります。つまり、ここで言葉は、作品を説明するためのものではなく、これからの表現をつくるための設計図として機能します。

 実はそういったコンセプトメイキングの作業においてやっていることは、批評を書くときとそれほど変わりません。作品をよく観察したうえで、過去とのつながりを探し、現在のシーンのなかに置き、そこに固有の価値を見つける。ただ、大きく違うのは、そこで発見した意味を原稿のなかで完結させず、本人やチームがこれから表現をつくるための言葉へ変換することです。その際、批評する側の解釈をアーティストに押しつけすぎてはいけません。「こうした方が売れる」「自分ならこうする」と、自分の好みに合わせて作品を変えるのが狙いではないからです。大切なのは、その人がこれまで何を作り、いま何を作ろうとしているのかをよく見たうえで、「この人にしかない価値は何で、どうすれば世の中においてその価値が最大化できるのか」「本人がやろうとしていることを、どうすればもっと鮮明にできるのか」をともに考えることだと思います。それらを考え抜いた結果、ワンワードのコンセプトや世界観のトーン&マナー、キャラクター設定、さらにはそれらが形づくるナラティブといったものが整理され、一枚のコンセプトシートにまとまっていきます。

 わたしは以上のような、言葉を中心に置くコンセプトメイキングの仕事は、これからますます必要性が高まるのではないかと考えています。理由の一つは、一人のアーティストを取り巻くコミュニケーションが、以前よりはるかに複雑になっているからです。とりわけメジャーレーベルのアーティストになればなるほど、もはや楽曲制作だけで活動が完結することはありません。映像やアートワーク、衣装のスタイリング、SNS運用、ライブ制作、マーチャンダイズ開発など、作品を世の中へ届けるための接点が増え、それぞれに異なるプロフェッショナルが関わる時代になっています。メガヒット・アーティストでなくても、一人の活動に二十人、三十人規模の関係者が関わることは珍しくなくなっているのです。そこでは、それぞれの専門家が良い仕事をすれば、個々のアウトプットの質は上がります。ただ、コミュニケーションの機能が増えることで、別の問題も生まれるのです。映像は映像として格好いい。衣装も魅力的で、SNSの施策もよくできている。しかし、それらがすべて同じアーティストについて語っているように見えるとは限らない――。関わる人数や表現の種類が増えるほど、「このアーティストはそもそも何者なのか」「今回の作品で何を表現しようとしているのか」という中心が曖昧であれば、アウトプットはばらばらになってしまいます。

 そこで、コンセプトの言語化が重要になります。ここでいうコンセプトは、単なるキャッチコピーではありません。アーティスト本人、プロデューサー、A&R、映像監督、スタイリスト、デザイナー、ライブ制作やSNSの担当者まで、それぞれが何かを判断するときに立ち返ることのできる共通言語です。「このアーティストが表現しようとしているのはこういうことだ」という中心が言葉になっていれば、そこから「この映像は合っているのか」「この衣装はやりすぎではないか」「この言い方は本人らしいのか」と考えることができる。つまり、言葉は作品を説明するためだけではなく、大人数のチームの意思決定を束ねるための設計図にもなるのです。

 本来であれば、アーティスト本人やエグゼクティブプロデューサーのような立場の人が、その役割を担えればよいでしょう。ただ、作品、ビジュアル、コミュニケーション、現在のシーン、アーティスト自身の過去と未来までを行き来しながら、それらを一つの考えとして言語化することは簡単ではありません。制作の内部だけにいると見えづらいこともあれば、外から眺めているだけでは分からないこともある。だからこそ、アーティストの内側に入りながら、同時に外側から俯瞰し、その人のコアにある価値を言葉にする役割が必要になるのだと思います。

 ただし、実際にメジャー、インディペンデントを問わず、プロデューサーやA&R、アーティスト本人とこうしたワークを重ねていると、すべてのアーティストに同じようなサポートが必要なわけではないことも分かってきました。自分自身で、優れたセルフプロデュースができるアーティストもいるからです。ここでいうセルフプロデュースとは、自分のことを雄弁に説明できるという意味ではありません。むしろ、何を見せて何を見せないのか、何を説明して何を説明しないのか、どこまで統一し、どこに曖昧さやノイズを残すのか。その出し引きを、意識的にせよ無意識的にせよ的確に判断できることです。さらに、楽曲だけでなく、写真や衣装、言葉、振る舞いまでを一つの感覚で捉える、ある種のアートディレクション的なセンスを持っている人もいます。そういったアーティストに対して、外部から「あなたのコンセプトはこれです」と言葉を与えすぎると、かえって魅力を狭めてしまうこともあります。曖昧なまま残しておいた方が面白いものまで説明し尽くしてしまうかもしれない。だからこそ、そういう場合には、相談を受けたとしても必要以上に介入しないケースもあります。

 反対に、外部からのコンセプトメイキングが有効なのは、才能や魅力的な素材は十分にあるのに、それらがアウトプットのなかで散在している場合です。楽曲は面白い。ビジュアルにも魅力がある。本人の発言にもその人ならではの感覚がある。それなのに、それらが一つの像として結びつかず、外から見ると「この人の何が本当に面白いのか」が掴みにくい。あるいは、プロデューサーやディレクターがついていても、「いまはこういう映像が流行っている」「SNSではこう見せるとよい」といった手法からディレクションが始まり、アーティスト自身の核が置き去りになっている場合もあります。そうなると、施策ばかりが先に増えていく。何を表現したいのかを考える前に、具体的な方法論が積み重なっていくのです。しかし本来、先に考えるべきなのは「なぜこの人はこの音を鳴らしているのか」「なぜこの表現に惹かれているのか」「これまで繰り返してきたものの奥に、どんな価値があるのか」ということです。WHATやHOWを増やす前に、WHYを見つける。そこに、外部から批評的に関わる立場の人の役割があります。そのWHYが鮮明になれば、そこから先の映像や衣装、アートワーク、ライブ、SNSなどは、それぞれの専門家が考えることができます。コンセプトメイキングをする人が、すべての表現を自分で決める必要はありません。むしろ役割は逆で、全部を決めるのではなく皆がそれぞれ判断できる中心をつくる。言葉によってコアをつくり、その言葉を各分野の専門家へ手渡していくことが重要なのです。

 ゆえに、良いコンセプトメイキングとは、その人に合った言葉をちょうど良い塩梅で与えることです。セルフプロデュースできる人には、考えを映す鏡になる程度でいい。本人のなかに考えはあるけれど整理できていないのであれば、それを一緒に言語化する。表現が散在しているのであれば、そこに共通するものを探し、コンセプトから組み直す。アーティストによって、必要な介入の深さは違います。言葉を与えること自体を目的にするのではなく、その人に必要な分だけ言葉を使う。そのうえで、アーティストがもともと持っていた価値を、本人にも、そして関わる多くの人にも見える形にする。チームが大きくなり、表現の接点が増え続ける現在だからこそ、そうした役割はますます重要になっていくでしょう。

 ここまで見てきたように、音楽について語り/書く過程で培われる批評のスキルは、執筆や発話のために使うのはもちろんのこと、それのみに閉じる必要はありません。対象を観察し、違いを見つけ、文脈に置き、そこに意味を与える。その力は、企画をつくることにも、アーティストのコンセプトを整理することにも使えるし、さらに長期的なブランディングやA&R、クリエイティブ・ディレクションへと広げていくこともできるでしょう。あるいは音楽産業の外へ出て、ブランドや企業とアーティストをつなぐことにも生かせるかもしれません。

 わたしは、批評を「文章を書くための技術」として閉じず、次の作品や企画、コミュニケーションを生み出すための力として使っていくことが、いまの時代における「音楽を言葉にする」という営みの再定義だと考えます。今回はコンセプトメイキングを一つの例として挙げましたが、こうした試みはまだ十分に広がっているとは言えません。だからこそ、批評性や言語化の技術をどこでどのように使えるのかを、もっと自由に考えてよいはずです。「この曲が良い/悪い」と評価するだけでなく、まだ見えていない価値を見つけ、それに言葉を与え、作品と社会のあいだに新しい接点をつくる。その言葉から次の表現や動きを生み出していく。そう考えれば、音楽について語り/書く人が関われる場所は、思っているよりずっと広い。音楽を言葉にするということには、それだけ大きな可能性があるのです。

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