人が悲しみによって死に至る病“HBD”とは? 作家・乾ルカの新機軸『神の代役 HBD調査鑑別室』インタビュー

乾ルカ『神の代役 HBD調査鑑別室』(ポプラ社)

 もし、人に強い絶望や悲しみを与えることで、死に至らしめることができるとしたらーー。乾ルカの新作『神の代役 HBD調査鑑別室』(ポプラ社)は、“HBD”(Heart-Breaking Death/強い絶望や悲しみを感じたことが原因で死に至る病)が流行しつつある世界を舞台にした作品だ。

 本作の主人公は、死の引き金となった”絶望"を調査・特定し、その要因から犯罪性の有無を鑑別する組織「HBD調査鑑別室」に新卒で配属された一ノ瀬美羽。オタ活にいそしんでいた女性、年金暮らしの独居老人、いじめに遭っていた中学生など、さまざまな被害者と向き合うなかで、一ノ瀬は表面的な事象だけが絶望を引き起こすわけではないことを理解していく。

 人間ドラマ、特殊設定ミステリー、主人公の成長譚など、様々な楽しみ方ができる同作は、青春小説の名手として知られる乾ルカにとっても新機軸。本作の執筆に至った経緯、その背景について聞いた。

ドラマ『アンナチュラル』からの影響

乾ルカ

——新作『神の代役 HBD調査鑑別室』は、絶望や悲しみによって死に至る病気“HBD”を巡る物語です。どのように着想しましたか?

乾ルカ:2023年に発表した『葬式同窓会』(中央公論新社)に、「人間も、悲しみで死ねたらいいのに」というセリフを書いたんです。そのセリフを自分のなかで反芻するなかで、「“人が悲しみで死ぬ世界”は物語になるのでは?」と思ったのが、本作の着想のひとつでした。もうひとつは、ドラマ『アンナチュラル』(2018年)がすごく好きで。

——架空の施設「不自然死究明研究所」を舞台にしたドラマですね。

乾ルカ:そう、あの作品を観て「こんな物語を書けたらいいな」と。ただ、法医学の知識もないし、取材するツテもないので無理だろうと思っていたのですが、「だったら世界のルールそのものを変えてしまえばいいんじゃないか」と思い付き、悲しみで人が死ぬという設定にたどり着きました。

——現実には存在しない病「HBD」を設定することで、小説の世界が立ち上がった。

乾ルカ:HBDの設定はかなり作り込みました。「どういうメカニズムによって悲しみや絶望が人を死に至らしめるのか?」もそうですし、「HBDという病気によって、世界がどう変化するか?」も含めて、実際に物語のなかでは書いていないところまで作り込んでいます。世界のルールを変えてしまう以上、自分自身を納得させるためにも、その作り込みが必要だったんです。

——主人公の一ノ瀬美羽は、死の引き金となった”絶望"を調査・特定し、その要因から犯罪性の有無を鑑別する組織「HBD調査鑑別室」に新卒で配属されます。

乾ルカ:一ノ瀬美羽は、なるべく普通の女の子と言いますか、奇を衒っていたり、特別な能力があるわけではない主人公にしました。読者が「私が同じ立場でもこう思うかも」と共感してくれるような役割を託したかったんです。もちろん一ノ瀬は一ノ瀬なりに痛みを経験しているし、それを乗り越えるなり飼いならしたり、あるいは胸の奥に抱えながら生きています。その上で、HBD調査鑑別室に配属された理由も必要なので、演劇の経験があるという設定にしました。

——演劇での経験が仕事に活かされるところも興味深かったです。HBD調査鑑別室のメンバーの関係性もこの小説の読みどころだと思います。

乾ルカ:また『アンナチュラル』の話で申し訳ないんですが(笑)、私は所長役の松重豊さんが大好きなんです。HBD調査鑑別室の室長・百瀬は完全に松重さんのイメージですね。あとは「優しい人がいてほしい」と思って二木、陽キャのおもしろい人がいてほしいというところで八反、頼りになる事務リーダーの三上、そして、カッコいい人が絶対にいてほしいので四方田というキャラクターを登場させました。四方田は“ものごとを簡単に決めつけない”というポリシーを持っていて、そういう人をHBD調査鑑別室のリーダーに置きたかったんです。

——「HBDで命を落とした人はどんな絶望を抱えていたのか」を特定するのが調査鑑別室の任務ですが、四方田は一貫して“安易に結論を求めてはいけない”という態度で捜査にあたっていますね。

乾ルカ:はい。これは個人的な考えなのですが、“人が他者に完全に理解されることはない”という事実は、ひとつの救いだと思っているんです。もしも完全に理解してくれる他者がいたとして、その人から否定されるともうおしまいじゃないですか。

——たしかに。

乾ルカ:完全に理解してくれる人がいたとしても、その人が寄り添ってくれると限らない。そうであれば“他者のことはわからない”ということを前提にして、それでもわかろうとする態度こそが、より良い人間関係、ひいては成熟した社会に必要なのではないかと。それと同時に“その人にしかわからない、他者が決して立ち入ることができない領域がある”とお互いに認め合うことも大事で。そういう寛容さを持ちたいと私自身も思っていますし、“決めつけない”態度を貫く四方田には、そういう私の理想が少し入っているかもしれません。

絶望の真相に迫るミステリー小説

——わかり合えないことを理解したうえで、それでも歩み寄ろうとする。確かに今の社会に必要な態度だし、この小説のなかでは主人公の一ノ瀬がそのことを学んでいく姿も描かれていると思います。“被害者が感じた強い悲しみとは何だったのか?”に迫っていくストーリー展開には、ミステリーの要素があるとも感じました。

乾ルカ:私はミステリー作家としてデビューしたわけではありませんし、本格的なミステリーを書くセンスは自分にはないと思っているんです。ただ、デビューして少し経った頃に、数多くのミステリー小説を刊行している版元の編集者の方に『どんな小説もミステリーになり得ます』とおっしゃっていただいたことがあって。それから長い時間が経ちましたけれど、その言葉が支えになって、ミステリーの要素を入れた小説をようやく手がけることができたのかなと思いました。書いているときにそこまで強く意識していたわけではないですが、HBDで亡くなった人の悲しみを突き詰めることで、ミステリーに近づいたのかもしれないですね。

——真実にたどり着くまでの流れもとてもスリリングでした。

乾ルカ:プロットにはかなり時間をかけました。第一稿ではもう少し直線的なストーリーだったのですが、ポプラ社の担当編集者の方から「どんでん返しがほしい」とアドバイスをいただいて、波のある筋立てにしていきました。会話を書くのも楽しかったですね。物語の流れに沿って書いていると、どうしてもよく喋る人と人喋らない人の差ができてしまうのが難しいところですが(笑)。

——一ノ瀬の劇団時代からの親友、赤坂茉莉絵の存在もポイントですよね。信頼できる友達でありながら、一ノ瀬とは適度な距離を保っていて。

乾ルカ:まさに茉莉絵は“他者に寄り添う”ことの体現者だと思っています。「あなたのことは全部理解しているから」でもなく、「全部話して」と強いることもなく、「いつでも話を聞く用意があるよ」という姿勢で寄り添ってくれる。それを個人として体現できているのが茉莉絵だし、書いていて「本当にいい子だな」と思っていました。

——被害者はオタ活にいそしんでいた女性、年金生活を送る独居老人、いじめに遭っていた男子中学生、パワハラを受けていた男性会社員、宗教二世の男性と、今の社会的なイシューとも重なっています。

乾ルカ:そのあたりも特に意識はしていなかったんです。ただ、物語の中で“人は悲しみで死ぬ”という大きな嘘をついているので、そのほかの部分はできるだけリアルに描きたいと思いました。結果として、今の社会的な事柄とつながったのかもしれません。

——主人公の一ノ瀬をはじめ、魅力的なキャラクターが揃っていて、謎解きの要素もあって。『神の代役 HBD調査鑑別室』、ぜひ映像化してほしい作品です。

乾ルカ:そうなったらうれしいですね。現実の世界の在り方を大きく変えた設定もそうですし、真実を探ろうとするチームにも愛着があって。もし可能であれば、この物語を続けていきたいという気持ちもあります。

小説のなかで、作家は神様になれる

——乾さんの最初の作品『夏光』でデビューしたのは2007年。今年で20年目を迎えました。

乾ルカ:言ってもらうまで気づいていなかったので、ビックリしました(笑)。20年間に渡って小説を書き続けることができて、今年もこうやって本を出すことができたのは、読んでくださった方々、お世話になったみなさんのおかげです。

——この20年、社会の状況は大きく変わりました。ご自身の変化についてはどう感じていますか?

乾ルカ:デビューした当時は「自分の考え方、価値観は18歳くらいから変わっていない」と思っていたんです。ある一定の年齢になれば、人間はそんなに変わらないんじゃないか、という気がしていた。でも、こうして20年も作家をやっていると、それは違うかもしれないとも思うようになりました。この20年、本当にたくさんの方と出会って、お話をさせていただいて。皆さん一人ひとりが異なる思考を持っていて、極端な言い方かもしれませんが、まったく違う世界を生きているんだなと感じることも多かったんです。いろいろな世界の見方を教わるなかで、私の考え方も広がってきたように思います。その考え方の変化や視野の広がりが、どのような形で小説に反映されているのかは定かではないですが、何かしらの形で滲み出ているのかもしれないなと思います。

——昨今、世間ではAIが世にもたらす影響についても盛んに議論されています。乾さんは作家として、AIをどのように捉えていますか?

乾ルカ:私も日常的にAIを使っていますが、写真の加工くらいですね。飼っている犬に晴れ着を着させたり(笑)。あとは調べものだったり、「これで文意が通じるかな?」と校正に使ったりもしますが、AIが提案してきた文章をそのまま採用することはないです。

——テクノロジーが進化しても、人間が書く小説にしかできないことがあるという思いはありますか?

乾ルカ:どうなんでしょう? ただ、今回の小説で言えば、現実には存在しないHBDという病気、“人は悲しみで死ぬ”という大前提を考えたのは私なんですよね。自分で作った世界線に愛着を持てるかどうか、そこがポイントなのかなと。小説のなかでは、作家はすべてを自分で決められます。“この世界のなかでは自分が神様になれる”というのが好きで書いているところもあるので、個人的には、その喜びや楽しさをわざわざAIに渡さなくても良いと思っています。

——それが小説家としての欲求の根源なのかもしれないですね。この先の執筆のビジョンは?

乾ルカ:いつまで生きられるかわからないので、あまり長いスパンで物事を考えることはないんです。ただ、今回のような新しいスタイルの作品を書けたことは、私のなかで少し自信になっています。このスタイルから、さらに発展させていきたいですね。

■書誌情報
『神の代役 HBD調査鑑別室』
著者:乾ルカ
価格:1,980円
発売日:2026年7月1日
出版社:ポプラ社

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