【考察】『チェンソーマン』賛否両論の最終話が示すもの――ポチタの願いと『ルックバック』に共通する「喪失と再生」
『チェンソーマン』(藤本タツキ)第二部の最終話となる第232話が、「少年ジャンプ+」にて公開されたのは、2026年3月25日のことだった。
藤本タツキの『チェンソーマン』は、第一部(2018年~2020年)が「週刊少年ジャンプ」にて、第二部(2022年~2026年)が「少年ジャンプ+」にて連載された、ダークファンタジー・コミックの傑作である。
主人公の名はデンジ。「チェンソーの悪魔」(ポチタ)を心臓に宿し、敵を切り裂く「チェンソーマン」に変身して悪魔たちと戦う宿命を帯びた少年だ(第一部では公安のデビルハンターとして、第二部の序盤では、高校生活を送りながら秘密裏に悪魔討伐を行っていた)。
作者は物語を途中で放り投げたのか
さて、その『チェンソーマン』第二部の最終話が公開されるやいなや、SNSでは、コアなファンを中心に、賛否両論、さまざまな意見が飛び交うことになった。もちろんその全てを見たわけではないが、賛否の「否」のほうでいえば、「作者は収拾がつかなくなった物語を途中で放り投げたのではないか」というものが多かったように思える。
たしかに、それは一見正しい意見のようにも思える。じっさい、第二部の物語は、どちらかといえばエンタメ性の高かった第一部のそれと比べ、かなり難解(観念的・抽象的)なものになっており、主人公がどこに向かおうとしているのか(もっといえば、何と戦っているのか)、読んでいてなかなか理解し難いものがあった(少なくとも、私には)。
むろん、「死の悪魔」の降臨や、「戦争の悪魔」の暗躍(?)をめぐる、世界を揺るがす大変動が起きている、ということはわかる。その鍵を握っているのが、「チェンソーマン」ことデンジ(とポチタ)だということも。だが、物語は、哲学的な問答や、残酷な笑いを交えた暴力的な描写が延々と続き、結局、ある種の“夢オチ”といってもいいような終わり方で、唐突に幕を閉じるのだ。これを見て、「作者は物語を途中で放り投げた」という風に考える読者がいたとしてもおかしくはないだろう。
だが、何度か第二部の最終話を読み返しているうちに、ふとあることに気づいた私は、“これはこれで美しいエンディングなのではないか”と思うようにもなった。「あること」とは、2021年に藤本タツキが同じ媒体(「少年ジャンプ+」)で発表した、かの名作『ルックバック』のクライマックスとの共通点である。
※以下、藤本タツキ・作『チェンソーマン』第二部および『ルックバック』のネタバレを含みます。両作を未読の方はご注意ください。(筆者)
ポチタが願うのはデンジの幸せ
『チェンソーマン』第二部最終話の1話前――第231話において、ポチタはデンジにこんなことをいう。
「…デンジに大切な家族ができた時、行きたかった学校に行けた時、そして…アサ(引用者注・第二部のヒロイン、三鷹アサのこと)と理解しあった時、デンジはどこか幸せじゃなかったよね? 残念ながらデンジも気づいてたハズ。デンジは飢えて苦しんで悪魔と戦って、ボロ小屋で腐ったパンを食べてるほうがずっと幸せだった。デンジはね、地獄の中じゃなきゃ天国を見つけられない……最悪だけど最高な脳みそを持っていたんだよ」
そして、ポチタは、自分で自分を食べるのだ。ちなみに、「チェンソーの悪魔」が食べた存在は、その名前や概念がこの世界から消えてしまうのだが――つまり、ポチタは、自らの存在を消すことで、「デンジの幸せ」のために新しい世界を構築しようとしているのだった。
続く最終話は、第1話でも描かれていた「ボロ小屋」の場面から始まる。しかし、そこには、ポチタはいない。デンジは、「なんかイいような……ワリぃような夢みてた気ぃする……」などとつぶやき、(これまた第1話と同じように)罠にはめられるのを知らず、悪魔が待ち構えている廃工場(?)へと向かう。
そこから先の詳しい展開を書くのはやめておくが、デンジはその廃工場で、かつて「いつか見つけに行く」と誓って別れたある大切なひとと再び巡り合う。また、その後の描写でも、死んだはずの仲間たちが、“普通”に暮らしている(であろう)ことが確認できる。
デンジはその新たに構築された世界でもデビルハンターとなり、それなりに幸せな日々を今後も送っていけそうだ。しかし、その「幸せな世界」には、(彼は忘れてしまっているが)ポチタだけがいないのだ……。
ポチタ/藤野(『ルックバック』)の願いとは
これは果たしてハッピーエンドなのか。つまり、ポチタというかけがえのない友の犠牲の上に構築された新しい世界が、デンジにとって本当に「幸せな世界」なのか。
たぶん、そうではないだろう。そこで思い出すべきは、前述の『ルックバック』であり、同作では、物語の後半で、ある悲惨な事件が起き、主人公(藤野)は、ずっと一緒に同じ夢を見てきた(そしていまは離れて暮らしている)親友(京本)を永遠に失うことになる。
藤野は、主のいなくなった友の部屋の前で、“自分と京本が子供の頃に出会わなかった世界”を夢想する。その世界では、藤野と京本は別々の人生を歩むのだが、「悲惨な事件」の現場に藤野が偶然現われ、間一髪のところで京本を救い出す。
しかし、これはあくまでも「夢想」であり(注・読みようによっては、ここで世界線が2つに分岐した、ともとれなくはないのだが、私は、やはりこの場面は、藤野による幻視だと思う)、藤野は再び辛い現実と向き合い、「漫画を描く」という“自らがやるべきこと”のために立ち上がるのだった。
あらためていうまでもなく、現実の世界を舞台にした『ルックバック』の終わり方は、これでいいし、これしかないだろう。だが、ファンタジー作品である『チェンソーマン』は、スーパーナチュラルな展開が起きてもなんら不思議なことはないし、藤野ができなかったことが、ポチタにはできるのだ。
だから、先にも述べたように、私はこの、「自分がもしあのとき、彼/彼女と出会わなかったら?」というポチタ/藤野の“願い”を、『チェンソーマン』と『ルックバック』の共通点のように感じたのだ。つまり、『チェンソーマン』第二部の最終話は、『ルックバック』のクライマックスと、「喪失と再生の物語」という意味で表裏一体の関係にある、というのが、私の考えである。
2つのバグが、世界を変えた?
とはいえ、だ。気になるのはやはり、本当にポチタは世界から消えてしまったのか、という謎だ。最終話を既読の方はご存じだと思うが、実は、曖昧な形ではあるが、“ポチタの復活”らしき場面は描かれている。
それは、デンジがある学校に現れた悪魔を討伐しに行った際に起きる。悪魔は駆けつけたデンジらによってあっけなく退治されるのだが、ここでまず注目すべきは、彼が使う武器が、「チェーンソー」(注・「チェンソー」ではない)と呼ばれる鎖鋸(くさりのこ)であることだ。
そう、ポチタが自分で自分を食べたことにより、「チェンソー」の名前と概念(とポチタ自身)は世界から消えたのだが、新たな世界でも、「チェーンソー」なる、ほとんど同じ機能を持った存在は残った。その理由は不明だが、第231話でポチタ自身、「食べたら私も何が起こるかはわからない」といっていたように、「チェンソーの悪魔」の力をもってしても、完全にこの世から鎖鋸の存在を消すことはできなかったのかもしれない。
いずれにせよ、これが、新しい世界に生じたバグの1つである。そしてもう1つ。学校でデンジは三鷹アサと出会うことになるのだが、そのとき、彼女は思わず(この世には存在しないはずの)「チェンソー」および「チェンソーマン」という言葉を口にしてしまう(つまり、このときのアサの言動が、もう1つのバグというか、新世界にとっての特異点となるのだ)。
そこで、デンジの身体に“変化”が訪れる。アサの偶発的な言葉がトリガーとなり(注・もしかしたら、アサはふだんから鎖鋸のことを「チェンソー」と呼んでいたのかもしれないが、デンジにとっては、初めて耳にした言葉である)、心臓が、「ドクン」という音を鳴らしてポチタとおぼしき形に変わったのである。だが、デンジは、「なんか…さっき…心臓がドクンってなった…」というばかりで、ポチタのことを思い出すまでにはいたらない。
むろん、デンジが再びポチタのことを思い出し、「ふたりでひとりのチェンソーマン」として、この先も共に戦っていく、という熱いエンディングのほうが読み手にとってのカタルシスはあるのだろうが、とりあえずは、これくらいの終わり方にとどめておいたほうが、現代的というか、ちょうど良い温度のように私は思う。
あらためていうまでもなく、新しい世界は、(リセットはされているものの)あくまでも元の世界と地続きの世界であり、永遠に交わることのない並行世界というわけではないのだ(じっさい、元の世界でも、一度は消滅したはずの核兵器が、別の形の存在として甦ったりもしている)。だから、いつかデンジはポチタのことを思い出し、以前とは異なる新しい形の友情を育むことになるのだろう。そのとき、ふたりにとっての本当の「幸せ」は訪れるのだ。
なお、6月4日には、単行本の最終巻となる第24巻が発売される。多くのファンが望んでいる第三部がこの先描かれるかどうかはいまのところは不明だが、とりあえずは、この世紀の問題作の「完結」を祝福したい。
※本文中に引用した漫画の台詞は、読みやすさを優先し、こちらで句読点を加えたものです。(筆者)