『師弟』野澤亘伸×『将棋の渡辺くん』伊奈めぐみが語る棋士の素顔「初めて藤井さんを出さずに勝負しました」

 新刊『師弟 棋士の見る夢』(光文社)を上梓した写真家・ノンフィクションライターの野澤亘伸(のざわ・ひろのぶ)と、人気漫画『将棋の渡辺くん』(講談社)の著者・伊奈めぐみによる特別対談。共に「将棋界の日常」を独自の視点で切り取ってきた二人だが、意外にも対面するのは今回が初めて。職人気質の棋士たちが師弟関係の中で見せる素顔や、創作の裏側に迫る取材秘話、そして互いの作品への意外な感想まで、熱く深く語り合ってもらった。

将棋の日常を切り取る二人が、初めて顔を合わせるまで

野澤亘伸氏

ーーお二人はSNSでは相互フォローですが、実際にお会いするのは初めてだそうで。

野澤亘伸(以下、野澤):伊奈さんとは虫関係で最初にお会いするかと思っていたんですよ。以前、「いつか野澤さんの家の方に虫取りに行きたいです」のようなやり取りをしていて。暖かくなってきたからそろそろかなと思っていたら、このお話が先に来まして。伊奈さんに将棋の話を聞くのは恐縮ですよホント。

伊奈めぐみ(以下、伊奈):私もそんなに将棋は詳しくなくて語れるかと言われると。『オオクワガタに人生を懸けた男たち』は発売されてすぐ買いまして。こちらから入ったので、将棋関係の人というよりは虫の人という認識でした。

野澤:『将棋の渡辺くん』は全巻持っています。初期の頃に家に来たお客様にお茶を出して、顔を合わせずに去るというエピソードが印象的でした。なのでこうした企画に出てくれるのかなと、こうしてお会いするまで思っていました。

伊奈めぐみによる実録漫画。夫(当時)である将棋棋士・渡辺明の日常を主な題材とし、一風変わった棋士の素顔や生活をユーモラスに描く。2026年4月現在、『別冊少年マガジン』(講談社)で不定期連載中。

伊奈:いえいえ、取材などの仕事は大丈夫です。実は、普段は将棋の作品はフィクションもノンフィクションも読まないんですよね。フィクションだと現実と違うだろと思ってしまいますし、ノンフィクションに関しては普段から自分が接しているので、新しい発見も少ないだろうと。今回の『師弟 棋士の見る夢』も正直なところ、少し構えて読んだのですが、とても面白かったです! 自分のマンガで棋士に話を聞くこともありがますが、それは個人にスポットを当てる形で。関係性というものはあまり描いてこなかったんです。

野澤:ありがとうございます。師匠が自分の弟子相手だからこそ発せられる言葉があると思っています。最初に出した『師弟 魂の伝承』(2018年、光文社)は個別の取材で対談はなかったのですが、2冊目以降は個別の取材+対談でやってきました。対談だとくだけた雰囲気になったタイミングでこそ見られる、素の部分がありますから。

どっちが師匠か分からない? 増田康宏という「一味違う弟子」の存在

伊奈めぐみ氏

伊奈:増田(康宏八段)君の話が特に面白かったです。どっちが師匠か分からない内容になっていますよね。

野澤:彼は本当に面白いですよ。一冊目でも森下(卓九段)先生と増田さんのところだけ毛色が違います。森下先生は言葉が丁寧で弟子を立てるし、弟子も「師匠の言うことは古いです」と言い切るから逆転していますよね。この組み合わせだけ2回目をやったのも、8年経ってその後が気になったからです。

 この企画が持ち上がった時も編集長からはお互いに褒めるだけの内容にはしてくれるなと。それは僕も分かってはいましたが、どうしても弟子が強く言うのは難しい。師匠は厳しいことは言えますが、方向性としては6組全部同じテイストになっても仕方がないかなと。その中で増田さんが一人違うことを話してくれて、これはいい内容になったなと思いました。こうした発言が受け入れられるのも、増田さんが才能も実績もあり、周囲に認められているからこそですが。

伊奈:一番は実力がないと説得力がない世界ですからね。今回の本で森下先生が弟子を思いやった話が出てきて、いい関係性、いいエピソードだなと思いました。

野澤:その話は前に伺っていたのですが、その時は森下先生から書かないでほしい、と。今回あらためて連絡し、僕としては美しいお話なのでぜひとお願いして、今回の紹介にあたりました。増田さんにもその話を振ったところ、周囲からうっすらと聞いていたようで、「ありがたかった」と話していました。

伊奈:山崎(隆之九段)さんの話も載っていますよね。彼は内弟子として師匠の家に住んでいたそうで、同世代として驚きですよね。自分の世代で他人の家に住むなんて話は聞いたことがなかったので。お互い大変なことも多かったんだろうなと。

野澤:森(信雄七段)先生と山崎さんは、今回取り上げた中で唯一の内弟子経験がある師弟です。やはり濃さが違いますよね。その頃の山崎さんは自分のこと、将棋のことしか考えられない状況で。その中で結婚したばかりの師匠に付いていっているわけですから。その頃の奥様は本書でも触れているように色々とつらいこともあったそうですが、今となってはどの弟子よりも山崎さんが気になると。取材で話を聞いた時も自分の息子と同じくらい大切に思っているなと感じました。

伊奈:色々あったからこそで、いい関係ですよね。普段の人間関係でも合わない人がいるじゃないですか。でも縁は切りたくない、数年後にまた会ってみたいなと思うことがあります。そうすると関係性は変わるみたいな。

 今回本を読んで初めて知った話もありました。西山(朋佳女流三冠)さんの話など、あまりメディアに出ていなかったと思うので。

野澤:伊藤(博文七段)先生が言っていたのは、師匠から続いてきた系譜が自分で途切れてはほしくない。棋士系統図には女流棋士は載らないので、西山さんに四段になってほしい、と。今回の本を出版するにあたっても連絡したのですが、今年の白玲戦の防衛戦でチャンスがある(女流タイトルの白玲を5期獲得するとフリークラスで四段になる制度が新設。現在白玲を保持する西山は4期獲得)と、楽しみにしていました。

七冠制覇の現場へ行くも「記事にならない」のが当たり前だった時代

ーー今回の本は7組(うち1組は弟子が3人)の師弟が出演されています。弟子に何らかの活躍があった時に取材をされたそうですね

野澤:梶浦(宏孝七段)さんは竜王戦で活躍した時にお願いしました。実は私は鈴木(大介九段)先生の師匠の大内延介九段のファンでして。ご存命でしたら大内─鈴木で取材をしたいくらいでした。それもあって梶浦さんとの話だけでなく、大内先生との話も聞きたいと思ってお願いしました。

 森下先生のところでも、師匠の花村元司九段の話が少し出ています。私は昭和の人間なので、どちらかというと師匠のさらに師匠の話がツボに来ます。

伊奈:昔の方って今よりも早く家を出て師匠のところに来るなど、関係性が深いですよね。

 今回本を開いて、プロローグで林葉直子さんが出てきて驚きました。なぜ林葉さんに?

野澤:プロローグは最後の最後に書くものですが、以前担当してくれた方が『プロローグは作者が一番自由に書けるところなんだよ』と教えてくれまして。林葉さんとは同世代で、以前から福岡に遊びに行ってお会いすることがありました。彼女は色々なところで誤解される部分もあるんです。それで世間に少しでも伝えるため、彼女の素顔に近いところをいつか書きたいと思っていまして、今回プロローグに出させてもらいました。

ーー将棋関係の仕事はいつ頃からでしょうか。

野澤:僕は『FLASH』編集部に1993年に入りました。その翌年に羽生善治九段が名人を奪取するシリーズがあって、初めて将棋の取材に行きました。その頃は一般週刊誌で将棋の記事はほとんどやりません。ただ、今以上に『名人』は趣があり、自主的に行こうと。でも記事にはならなかった。その後は羽生さんが七冠制覇に挑戦して3勝3敗で迎えた最終局も取材に行きました。ただ、あれも結果的に防衛になったので記事にはなっていません。これだけの大勝負なのだから、七冠になれなくても載せそうなものですが、当時の週刊誌はそうではなかった。

伊奈:あの頃は私も中学生で将棋をやっていたのでその感覚は分かります。そこまで将棋が注目されていないというか、そういう時代でしたよね。

野澤:雑誌としては売れていて今よりもはるかに余裕があったんです。だからせっかく取材に行ったからと、2ページくらい回してもらえそうなものですが、編集長が妥協しない。なので将棋より麻雀や競馬などが優先されてしまう。

伊奈:逆に余裕があるからでしょうか。取材に行って経費を使っても載せないのは、もったいないと感じます。

野澤:そういうことがいっぱいあった時代です。グラビアで撮影しても載らないことは珍しくなかった。僕らは次に行くだけですが、初めて全国誌に載ると期待していた新人のタレントさん側は気の毒でしたね。

1枚の写真から始まった、将棋世界での『師弟』連載スタート

伊奈:野澤さんが将棋の専門誌に関わるようになったのはいつ頃からでしょうか。

野澤:一冊目の『師弟』に載せていますが、気に入っている写真がありまして。主役はもちろん棋士ですが、背景に目を見開いていい味を出しているおっちゃんがいます。後に将棋世界の編集部で編集長に挨拶をしたら「実は私、野澤さんの本に載せてもらいまして」と言われて。出したかなぁ? と思い出していたらこの本をめくられて「あの人か!」と思い出しました(笑)。これで大笑いした後に「この本の続編をうちで書きませんか」と言われて、将棋世界での企画が始まりました。

 最初にやったのが畠山鎮八段&斎藤慎太郎八段でした。10ページ分スペースを用意してもらったのですが、まとめてみたら2倍以上の文量になってしまって。そこから削りに削ったものの、とても収まらなくて締切2日前に電話して最終的に15ページにしてもらいました。編集長も「とんでもない人に仕事頼んじゃったな」と思ったでしょう。この二人は師弟の中でもとにかく熱くて。これが好評で次に行くのですが、中田功八段&佐藤天彦九段といいカードを編集長が切ってくるんです。それが続いて2冊目の本になりました。

伊奈:野澤さんは元々写真家の方ですよね。文章を書いて本を出すようになったのはいつからなのでしょうか。

野澤:長尺の文章は『師弟』のシリーズが初めてですが、記事などは頻繁ではないものの書く機会はありました。将棋の記事としてはその前に2014年に電王戦の取材(『FLASH』)をしています。その時に出場した棋士にもお話を聞いた関係で、森下先生とも接点ができていました。

 この時に担当してくれた編集者が「人間とコンピュータが対決していてすごく面白いから」と、カラーを5ページも用意してくれました。この時の縁がきっかけで、後に藤井聡太さんが出てきて将棋が盛り上がった時に、『師弟』の本を出す話につながっています。

伊奈:1冊目は最初に表紙を見た時に藤井さんメインの本なのかと思いました。それで最初は少し抵抗があったんですよ。藤井ブームに乗っただけの本ではないかと。でも読んでみたら色々な方が出てきて、印象とは違って面白い本でした。

野澤:当然ながら出版社的には藤井さんを打ち出したい。2冊目もそうでした。その意味でも今回の3冊目は新たな試みです。たっくん(伊藤匠二冠)を前面に出してはいますが、初めて藤井さんを出さずに勝負しました。

リングに上がる才能はないから、傍らで「人の生きざま」を追う

伊奈:プロフィールで気になったのは、将棋以外にもフリーランスとしてソマリア、ナイジェリア、東ティモールなど世界各国に行かれているとか。

野澤:日本ユニセフ協会の仕事をやっていまして、一昨年はキリバスに行きました。海抜3メートルくらいしかなく、このまま温暖化で海面が上昇すると水没してしまう国家の一つです。フィジーを経由して渡りました。

伊奈:私も海外には興味があるので、マニアックな国の名が出ているのに惹かれました。

野澤:日本ユニセフ協会の仕事で行くので、基本的に貧しく、その国の子ども達を中心にの取材をすることになります。貧困や人身売買、栄養失調などの問題ですね。

伊奈:私もそういった問題には興味があって、もちろん現地へ行くことは難しいのですが、20年ほど寄付は継続しています。なので直接現地へ行って活動されているのはすごいなと。その仕事もオオクワガタの本も、そして今回の本も人を対象にされていますよね。

野澤:伊奈さんもマンガの内容からして人間観察が好きでしょう。私も人の生きざまには引き付けられるので、それを追い掛けているところはありますね。自分はリングやステージに上がれる才能や能力はないので、傍らで姿を追っているんです。

伊奈:逆に色々な人を見られますよね。たとえば棋士になったら棋士の人生しかありませんが、カメラマンでライターならどんな世界の人も見ることができる。

野澤:週刊誌の仕事からスタートしたことが、そこを自分に気付かせてくれました。スポーツ選手、芸能人、作家、他にもあらゆる世界の人に取材で接してきました。その経験で得た取材のノウハウや人脈は自分にとって大きな財産です。

堂々と腕組みして検討を見る。「張り込みのコツ」で潜り込んだ控室

伊奈:その中でも棋士ならではの魅力はありますか?

野澤:元々将棋が好きで、もちろんとても棋士を目指すような才能はありませんが、アマチュアの三段前後くらいはあったと思います。ピークは高校2年くらいでしたが、今のようにネットはないですし、田舎なので強い人と指す機会がなく続けませんでした。東京に来てからも全然将棋はやっていなかったのですが、『FLASH』の編集部に入ってから将棋をやっている人がいて。最初は通り過ぎているだけでしたが、馴染んでくると「将棋知ってるか?」と声を掛けられます。それで指したのですが、何年もやってないとはいえ、さすがに負けません。腕自慢の人もきましたが、王手も掛けさせずに一蹴して。それで「野澤つえーぞ」と顔を見れば挑戦されるようになり、にわかに編集部で将棋ブームが起きました。

 これで将棋熱が再燃して、先ほど話した羽生さんの名人挑戦など取材に行くようになったんです。その現場で『泣き虫しょったんの奇跡』の編集を担当された講談社の方と出会いました。その方は取材というか将棋が好きで見に来ていて。今と違ってタイトル戦の現場もゆるい雰囲気で、一見の人間でも普通に控室に入れた時代でした。みんな私のことを知らないのですが、棋士の検討を堂々と腕組みして見ていると、(この人は何か意味がある人なんだ)と解釈してくれます。張り込みでもこの堂々とするのが大切で、疑われないコツです(笑)。それを繰り返しているうちに講談社の方と話すようになって、棋力も近かったので一局指す事になりました。その時は時間もなくて決着がつかなかったのですが、それをきっかけに講談社の将棋部へ毎月行くようになりました。ただ段々と仕事が忙しくなり、再び将棋は指さなくなりましたが、電王戦で現場に行ってみるといるんですよ。久しぶりの再会でした。

伊奈:今後、師弟シリーズの続編はあるのでしょうか。

野澤:私の中で、一通り話を聞きたい組み合わせは書いてしまいました。もちろん中には断られてしまった人もいるのですが。今回の本にも出ている井上(慶太九段)先生と菅井竜也八段の組み合わせは、いつか機会があればと思っています。井上先生は師匠として魅力的な方で。ここまで弟子に思われている師匠はなかなかいないんじゃないかと。将棋界は好きなので、師弟以外のコンセプトで取材をするチャンスがあればやってみたいですね。

ーー今回の『師弟』はどんな方に読んでもらいたいでしょうか。

野澤:将棋ファン以外の方にも読んでもらいたいですね。将棋を知らない方でも読みやすいことを意識して書いたつもりではあります。いくら将棋ブームといっても他のプロ競技と比べて狭いファン層なのでそこを少しでも広げられれば。自分自身も将棋が好きでやってきたので、棋士へのリスペクトは強いです。小学生で自分の人生を決める世界で、すごい生き方を歩んでいるなと。ほとんどの棋士が自分の哲学を持っていて、取材していて棋士に「ダメです」「イヤです」と言われたら、どれだけ説得を試みても覆ることはありません。それだけ意思が固く、自分を持っている人達の世界なんだと思います。

■書誌情報
『師弟 棋士の見る夢』
著者:野澤亘伸
価格:2,200円
発売日:2026年4月22日
出版社:光文社

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