古文・漢文=文学作品は間違い? 古文・漢文嫌い必読の古典入門『古文と漢文――書き言葉の日本語史』を読む

 これを学んで何の役に立つのか?と、たびたび話題に上る古典不要論。ここでの議論に一石を投じることになるだろう一冊が、3月9日に刊行された本書『古文と漢文――書き言葉の日本語史』(ちくま新書)だ。

 著者の田中草大は日本語の歴史、特に平安時代や鎌倉時代の言葉を研究対象とする学者である。その経歴からして古典を学ぶ意義を説いた本だろうと思いきや、さにあらず。古典を学校で勉強させられるのが気に食わないという思考に、大いに共感を覚えるという著者は、嫌いな人ほど古文・漢文を分かりたい気持ちが強いのではないかと考える。そこで古文・漢文嫌いを第一の読者に据え、彼らが古典を嫌う確かな根拠となる知識を提供する古典入門としているのだ。

 そんな本書で重要なテーマとなるのが、「古文とは、漢文とは何か?」である。簡単すぎる問いと思うかもしれないが、的確に答えられる人は多くないはず。たとえば、「古文=古い時代の文章」「古文・漢文=文学作品」なんて答えは不正解となる。

 意外なことに古文の教科書は、現代からそう遠くない時代も対象としている。著者が例として挙げる筑摩書房『古典探究 古文編』(古探715、2024年発行)には、奈良時代の『古事記』から明治時代の森鴎外『舞姫』まで、各時代の散文作品が収められている。そしてどの作品にも、「たまふ」「なり」「まほし」といった古典文法(平安時代の書き言葉の文法)の言い回しが使われている。時代の変化とともに話し言葉は古典文法から乖離していったが、書き言葉は1000年以上に渡っておおよそ同じ文法が使われていたというのだから驚きである。

 漢文も古文と同様に長い歴史を持つ。国語科において漢文とは、中国語文を訓読みでしかも古典文法を用いて日本語として読むものである。つまりは古文の中の、表記・文体のバリエーションの一つと捉えられる。遅くとも7世紀後半には成立したと思われる訓読法が受容されると、今度は逆に日本語文を中国語式で書き記す方法も生まれる。

 古典文法にしても(日本語表記法としての)漢文にしても、文学作品だけに使われていたわけではない。書き言葉における共通の作法として広く使われていた。本書ではその証拠として古典文法で書かれた江戸時代の料理本や、「告知 往還諸人」(ご通行中の皆さんにお知らせします)で始まる、9世紀頃に漢文を使って書かれた逃走馬の捜索依頼などが紹介されている。

 こうした本書の古典にまつわる灯台下暮らしとも感じる話の数々が、授業を受けているようなお勉強感も無く読んでいて楽しい。漢語の使用頻度がごくわずかとされる和歌について、〈こうなると、和歌でもゼロではないということが逆に気になってくる〉という著者が『古今和歌集』で見つけたとある漢語など、指摘したら平安時代の人々も「そういえば、いつの間にか使っていた!」と膝を打ちそうである。

 古文・漢文嫌いに向けて書きつつ、古典の存在意義についてあくまで第三者的立場をとるところも、本書ならではの個性といえる。〈日本で漢文訓読という方法が確立した時期がおおむね奈良時代から平安時代にかけてであり、そのため(その時代にとっての「現代語」であるところの)古典文法によって訓読が行われるようになったという偶然の結果に過ぎない〉〈古典文法が他の時代の日本語文法に比べて訓読という作業により適しているということもない〉。著者のこのような分析が、古典の否定に結びつくわけではない。結局誕生しなかったがあり得たかもしれない言文一致の訓読法、漢文が漢字仮名混じり文に形を変えて明治以降も延命した歴史など、肯定とも否定とも方向の異なる話につながっていく。そこに、古典について必要・不要以外の選択肢を読み取ることもできるはずだ。

 口語文(その時代の話し言葉による文章)が書き言葉の主流となった現在、古典を学ぶことで得られるインセンティブは昔より少ないと、本書では指摘されている。一方で、法令では旧来の文語文が残っていたり、「…について説明せよ」「注意!横断歩道あり」など口語文法でうまく表現できない表記を、古い言い回しが補っていたりする現状もある。だからこそ古典を学ぶ機会を急に無くすのではなく、今の日本語とのつながりを実感できるような内容を増やすなど、何を教えるかについて見直すのが建設的な気もする。それに対して、日本語をさらに進化させるために、古典からの脱却を考えるのも建設的とは言えないか?なんて主張もできそうだ。

 と、脳内で意見を戦わせていると、本書を読んだ人々が「古文・漢文とは何か?」を踏まえてどんな議論をするのか、今から楽しみにもなってくる。

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