『花緑青が明ける日に』花火が見えず聞こえもしないノベライズで何がわかる? 蒼山皆水が描いたキャラの感情とわだかまり
日本画家でもある異色のアニメーション作家、四宮義俊によるアニメ映画『花緑青が明ける日に』が3月6日に公開され、水彩画のような淡いタッチと色彩を持ったビジュアルに注目が集まっている。ストーリーの方も取り壊し目前の花火工場から最後の花火を打ち上げようとするスリリングなもの。そうした事態に登場人物たちがどのような思いを抱いて臨んでいるかが、蒼山皆水によるノベライズ『花緑青が明ける日に 僕が信じた幻の花火、きみとの奇跡の2日間』(スターツ出版)を読むとよく分かって、映画をまた観たくなる。
花緑青。青みがかった緑色をした顔料で、絵の具として使われると絵に神秘的だが暖かみも兼ね備えた雰囲気を与える。その色をタイトルに使っているだけあって、映画『花緑青が明ける日』も全体が緑色を基調としたトーンで描かれていて、ポスターや予告編などを見た人に他のアニメ映画とは違った静謐な印象を与える。
四宮監督が日本画家ということもあり、文学的でアーティスティックな作品なのかといった先入観を抱いてしまう人も少なくなさそう。ところが、実際に映画を観てみると、意外にもアクションでコメディで青春でもあるエンターテイメント作品だったのかといった驚きを味わうことになる。ゴッホやセザンヌのような絵画が動くハイブロウな作品だと思って観るのを迷っている人がいたら、そこは違うと言っておこう。
何しろ冒頭からコミカルなシーンが続出だ。東京の大学に通いながらプロジェクションマッピングのようなプロジェクトを仕掛け、若きメディアアーティストとして評判になっているカオルという女子学生のところに、ある自治体からコラボレーションしたいという依頼が来る。勇んで待ち合わせの場所に行ったカオルの前に現れたのは、同郷で同じ年齢で今は地元の市役所に勤めているチッチだった。
逃げるカオルに追うチッチ。カオルを慕う後輩たちがチッチを通せんぼするシーンのドタバタぶりが、アーティスティックな作品といった先入観を初っぱなからぶち壊す。やがてどうやら逃げるのを諦めチッチの車に同乗したカオルは、来訪の理由が実は取り壊しを翌日に控えたチッチの実家の花火工場に立てこもっている弟の敬太郎に声をかけ、引っ張り出すことだと知る。
そこから、花火工場を舞台にした敬太郎とカオル、そしてチッチの物語が本格的に幕を開ける。
大学への進学というごく当たり前の理由で上京したカオルが、地元に戻ることを嫌がったのはなぜなのか。映画の舞台となっている二浦市のモデルは三浦半島の三浦市で、東京に通おうと思えば決して通えない距離ではない。とはいえ、上京を選んで下宿しても悪くない距離で、そうしたからといって故郷を捨てたと責める人はいないだろう。
この点について、ノベライズ『花緑青が明ける日に 僕が信じた幻の花火、きみとの奇跡の2日間』を読むと、カオルと故郷に残った敬太郎との間に感情のぶつかり合いがあったことが分かる。3年半前、上京を決めたカオルは敬太郎から「裏切り者」という言葉を浴びせられた。その時に受けたショックと、そうした言葉を敬太郎に言わせてしまった負い目がカオルに帰郷をためらわせていた。
チッチと同学年のカオルは敬太郎より3歳上だが、地元にいたころはチッチよりも敬太郎の方と仲が良かった。2人は、敬太郎やチッチの母親から存在を伝えられた父親の英太郎が再現に取り組んでいたが、なぜか途中で作業を止めてしまった「シュハリ」と呼ばれる幻の花火を、自分たちの手で打ち上げようと頑張っていた。
幼馴染みであり地元の花火大会を守りたいと願う同志であった2人だったが、ある事故をきかっけにカオルは花火への情熱を急速に細らせていき、シュハリ再現の夢も諦めて上京していった。そんなカオルを、まだ中学生だった敬太郎は理解できず、感情にまかせて「裏切り者」という言葉をぶつけてしまった。
この敬太郎とカオルの歳の差や、2人の間に残っていたわだかまりが、映画の方ではあまり深くまでは描かれない。引きこもり気質の敬太郎がひとり実家に残り、閉鎖が決まってしまった花火工場を残して家を出てしまった父親に代わって、シュハリの復活に黙々と取り組んでいただけのように取られても不思議はない。そうした側面もあるものの、カオルと敬太郎の間に感情面のすれ違いがあったことを知ると、映画の中で2人がどのようにわだかまりを乗り越えていったかを感じ取ることができるだろう。
ノベライズにはさらに、地元でまだ花火大会が行われていた時、カオルが高校の先輩から花火見物に誘われていることを聞いて、敬太郎が「行けばいいじゃん?」と何も考えずに返したところ、「っ……敬太郎のバカ!」とカオルが吐き捨て去って行ったことが書かれている。つまりはそういうこと。なるほど、実家の花火工場に立てこもって、取り壊しの強制代執行を迎え撃とうとしていた敬太郎を、たとえわだかまりがあったとしても、カオルが放っておけなかった訳だ。
まさしく青春といった展開は、一方で敬太郎が立てこもっていた花火工場への強制代執行を前に、敬太郎がいちおうは完成させたというシュハリを打ち上げるという目論見を、どのように達成するのかといったスリリングな展開になっていく。そこに、シュハリという花火がいったいどういうものなのかといった謎に迫るストーリーも重なってくる。
敬太郎の両親が残した図面や言葉を手がかりにして、ひとつの応えにたどりつく流れはある種のミステリを読んでいるかのよう。その正体を明らかにすることが、全国各地で開発が進み、昔からの伝統的な行事が終了に追い込まれている状況を、逆手にとったものになっている点もユニークだ。決して開発を肯定している訳ではなく、自然のままだったらどれだけ素晴らしい光景を見られただろうかと想像させ、失ったものの大きさに気づかせる。そんなところがある映画だ。
ノベライズのカオルは、映画とは違って敬太郎といっしょに花火工場に立てこもったままではなく、いったん実家に連れ戻される。そうなって敬太郎はカオルへの思いに気づき、一緒にシュハリを打ち上げたいと訴える。ノベライズを読んで、カオルと敬太郎のよりドラマチックな関係を知った上で映画を観ると、淡々と進む展開の中に行き交う感情のようなものに触れて、より奥行きを感じ取れるかもしれない。
カオルも戻り、いよいよ始まった強制代執行との対決というスペクタクルな展開は映画と同様。その果てに待っている感動的なシーンもしっかり表現されている。とはいえ、やはり花火は目で輝きを見て耳で音を聞くことで真価が分かる芸術だ。その花火を、手描きの作画によって1枚1枚が描かれたアニメーションとして、大きなスクリーンで観ることによって味わえる感慨は他には変えがたい。
ノベライズはノベライズとして読んでカオルと敬太郎の心情を理解した上で、改めて映画を観ることで深まった理解と高まった感動を得る。そんな行き来を楽しみたい。