芥川賞受賞作『叫び』誕生の背景に“ひとり出版社”の力 石原書房が切り開いた新しい文学の回路
畠山丑雄の小説『叫び』(新潮社)が芥川賞を受賞した。その前段として、同氏が文壇で再び強く注目されるきっかけとなったのが、小説集『改元』の刊行だった。版元は、いわゆる「ひとり出版社」の石原書房。『改元』は三島由紀夫賞候補となり、ひとり出版社の刊行物が文壇の中央で評価されるという、これまで前例のなかった出来事を生んだ。
石原書房代表の石原将希氏は、もともと出版業界とは無縁の場所にいたという。「新卒のときは工作機械の会社にいました。金属をミクロン単位で削るような機械のメーカーの生産管理職です。小説や文学はもともと好きでしたが、趣味の世界でいいかなと思っていました」。しかし、「働き始めて一年が経ったころ父が亡くなって、自分の時間を何に使うべきかを考えていたときに、仕事は人生の中で一番時間を使うもの」だと考えるようになり、「だったら、少しでも興味のあることをやりたい」と出版業界を意識し始めた。
転機は、ひとり出版社の先がけとされる夏葉社の島田潤一郎氏による著作『あしたから出版社』(晶文社/2014年)を読んだことだった。「出版社ってひとりでもできるのか、と驚きました」。その後、国書刊行会に入り、営業を経て編集者として約5年間勤務する。「国書刊行会は営業がいて、広報もいてという形式の企画会議がなくて、編集長を説得できれば本を作れるという社風の会社でした。かなり自由にやらせてもらいましたが、それでも、やっぱりひとりでやる以上に自由な形はないと思いました」。2023年初頭、編集者としての経験を踏まえたうえで独立を決意し、同年4月に石原書房を立ち上げた。
作家・畠山丑雄との出会いは、独立後に再会した知人を通じてだった。
「その方のご家族の高校・大学の同期が畠山さんで、雑誌に作品は載るけれどなかなか単行本が出ない作家が家族の友人にいるから、原稿を読んでみてほしい、と言われたんです」
石原氏は畠山の2015年のデビュー作『地の底の記憶』(河出書房新社)を読んでおり、「今までの日本の小説家とはかなり違う人が出てきたな、という印象を覚えていた」。文芸誌に掲載された複数作を読むなかで、『改元』に収録される二編が「飛び抜けてよかった」との印象を持ち、長さも単行本に適していたことから「これは本にすべきだ」と決めた。
編集については、「現行の段階で、もう本になっていいものだと思った」と語る。
「初出誌に載ったものとはもちろん違ったものになっていますが、大きく変えるようなディレクションはしていません。ただ、この表現で本当に伝わるかどうかなど、細部の確認を畠山さんと一緒にやっていきました」
石原氏が感じた畠山作品の特異性は、「内側に閉じない」点にある。
「日本の小説は私小説の伝統があるからか、小説が狭くて暗くなりがちだと思うんです。でも畠山さんの作品は、外へ外へと開いていって、歴史という広い場に飛び出していく。しかも広がるだけじゃなく、深く潜り込んでもいく。横と縦の運動性がある」。その結果として「広くて、深くて、しかも明るい小説になる」。
その背景には、畠山自身の資質がある。「ものすごく貪欲に勉強する作家です。小説はもちろんそれ以外もたくさん読むし、外国語への興味も強い。自分の外にあるものや他者と自らを接続しようとする旺盛なエネルギーがあって、それが作品に出ている」。内に閉じず、外へ開かれた姿勢が、作品の明るさやユーモアにつながっているのではないかと見る。
『改元』が三島由紀夫賞候補となった知らせは、主催の新潮社からのメールで届いた。ひとり出版社の刊行物が候補になるのは極めて珍しく、しかも収録作はいずれも雑誌掲載から時間が経っていた。
「三島由紀夫賞という大きな賞の候補になったことは、本当に信じられなかったです。でも、単行本として出したことで、改めて見つけてもらえたという実感はありました。だから、自分がいいと思ったものは、絶対に本にしておくべきだと思いました」
背景には、出版環境の変化もある。
「近年、取次が小さな出版社や独立系書店にも対応してくれるようになって、出版がかなり民主化してきたと思います。その結果、これまで確立された世界だけでは完結しない状況になってきている。大手では商品にならないと判断されて単行本化されない作品、大きな賞の候補になってもその時選ばれなかった作品は忘れられて顧みられなくなってゆく状況でした。今見えている歴史の裏にあるものを掘り起こして、その歴史と等価なものとして対置することで、それらをひっくるめたシーン全体や、シーンの変化を伴う持続としての歴史をより面白く豊かにしていくことは、ひとりでやっている出版社だからこそできる仕事だと思います」
芥川賞受賞作『叫び』については、「デビュー作以来、一貫して突き詰めてきたテーマと文体が、極まった到達点。ある壁を突破して、明らかに次の段階に入った作品」だと評価する。
畠山丑雄の芥川賞受賞は、作家個人の評価にとどまらない。ひとり出版社が文学の評価構造に風穴を開け得ることを、石原書房と『改元』は静かに、しかし確実に示した。
■関連情報
石原書房ホームページ:https://www.ishiharashobo.jp/index