【連載】柳澤田実 ポップカルチャーと「聖なる価値」 第四回:Ye(カニエ・ウェスト)は21世紀を映し出す

Ye(カニエ・ウェスト)。後ろに写るのは、妻のビアンカ・センソリ。写真:REX/アフロ

■2013年にはアートだったブラック・クランズ(KKK)

 Ye(カニエ・ウェスト)について、もはや音楽ではなく、彼の暴挙によって知る人の方が多くなってしまった気がする。2025年2月に、ほとんど全裸のような出立ちの妻ビアンカ・センソーリと共にグラミー賞のレッドカーペットに登場したことは、Yeの音楽を聴いたことがない人まで知るゴシップニュースになった。またここ数年の欧米メディアのYeに関するニュースは、音楽よりも彼の反ユダヤ主義発言とそのバックラッシュに関するものばかりだ。

 ナチズムに近づいた大物アーティストは、Ye以前にも存在していた。1970年代、キリスト教福音派に接近していた頃のボブ・ディランは、自分自身もユダヤの出自であるにもかかわらずステージ上でユダヤ人を呪ったことがあった。また同じく70年代のアルバム『ステイション・トゥ・ステイション』の時期に、デビッド・ボウイは記者会見で英国にはファシズムが必要で、自分こそその指導者に相応しいと述べ、また若きキャメロン・クロウとのインタビューでは、ヒトラーを「最初のロックスターの一人」と呼んだ(参考:GQ『One Last Look at the Old Kanye West』By Alex Pappademas)。しかし、こうした言動は、彼らのキャリアを決定的に方向づけることにならなかった。「ボウイ」、「ナチス」などとググることができない70年代には、こうした発言は一時の気の迷いとして人々に忘れられた。ディランもボウイも、Yeのようにその態度を極化することもなく、まるでそんな暴言を吐いたこともなかったかのように次のステップに進んでいったのだ。

 しかしYeの場合、反ユダヤ主義的言動は人々に注目され、エスカレートし、彼のキャリアに決定的な影響を及ぼすことになった。それは2022年にファッション業界や音楽業界でのユダヤ人支配層による搾取を糾弾することから始まった。2023年には一旦謝罪したものの、2025年の年明けから再び始まった言動はエスカレートし、2月のスーパーボールのCMを通じ自身のアパレルサイトでナチスの鉤十字のTシャツを販売し、タレント・マネジメントから契約を切られた。5月には「Heil Hitler」をリリースし、オーストラリアに入国禁止になった。9月には2019年以降のYeの葛藤の記録、ドキュメンタリー「In Whose Name」が米国内限定で公開されたが、メディアには、Yeを無視できないものの容認もできないライターたちによる重苦しいレビューが並んだ。そして11月7日、Yeは突然ユダヤ教のラビに面会し、これまでの反ユダヤ主義的な言動を詫びる動画を公開した。その翌日にはトラヴィス・スコットの日本公演にゲスト出演し「更生」を宣言したようにも見える。しかし、良くも悪くもYeは相変わらずYeのままであり続けるだろう。つまり2019年のインタビューで彼自身が語ったように、あくまでも正直に「目の前のものを映す湖」であり続けるのだと思う。

 Yeの態度は一貫していて、大きく変わったのはむしろ社会の方なのかもしれない。2025年3月にアルバム『Bully』のデモを公開した後、彼は4月に黒色のKKK(米国の白人至上主義秘密結社)のコスチュームを着てDJアカデミクスのインタビューに応じ批判を浴びた(※1)。5月には「WW3」、「Cousins」、「Heil Hitler」というタブーを犯すことを自己目的化しているような楽曲が収録されているアルバム『In a Perfect World』がリークされたが、そのジャケットにも赤と白のKKKのコスチュームを着た人物が映っていた。

 視覚的にも強烈なこのKKKのコスチュームをYeが最初に用いたのは、しかし、2025年が初めてのことではない。彼は、2013年の実験的なスタジオアルバム「Yeezus」のリードシングル「Black Skinhead」のMVとジャケットで、黒いKKKを印象的に使っていた。タイトルになっているスキンヘッドは、ネオナチを想起させる不穏な表現だと当時も指摘されていた。フーリガンなどの暴徒を思わせる、激しいビートを刻むこの曲でYeは、「Pardon, I'm getting my scream on(失礼、叫びまくるぜ)」という歌詞の通り、雄叫びとともに、自らのクリエイティビティについてボースティング(自己顕示)をし、自分を文明社会のなかの「猿(キングコング)」として貶め続ける人種差別的な社会を糾弾している。この楽曲、そして黒いKKKが登場するMVは、2013年当時、批評家たちによって高く評価された

Kanye West - BLKKK SKKKN HEAD (Explicit)

 それから12年後、同様の振る舞いが、かつてのように「前衛的なアート」として評価されない理由は何だろう?もちろんこの間の差別的な言動の積み重ねによって、Ye自身が社会的信用を失ったことが大きく影響しているのだろうが、70年代のディランやボウイの例も併せて考えるならば、彼個人の問題だけでなく、社会自体の変化も大きな要因なのではないかと問いたくなる。ラッパーのオープン・マイク・イーグルは、Yeのショック戦術は、日々世界を驚かせている第二次トランプ政権の動きや、アテンション・エコノミーの変化によって、ほとんどかき消されてしまっていると指摘した。「お前(Ye)がかつて言っていたカウンターカルチャーのたわごとが、今では完全に主流になっている。Twitterにはナチスだらけだ」。確かに2025年現在、鋭利な言葉でショックを与える暴言はネット空間で常態化している。結果、規範やタブーに反することで人々の常識を揺さぶるという、かつて前衛アートが得意とした手法は機能しづらくなった。米国ではヘイト・クライム、特に反ユダヤ主義の犯罪が増加している。あらゆる差別はあってはならないという前提でのことだが、Yeは現在のユダヤ人ヘイトを先取ってしまっていたようにさえ見える。2003年にデビューしたYeが映し出してきた21世紀の社会とは果たしてどのようなものなのか。

(※1)この衣装は、再開が告知されていたゴスペルコーラスによるパフォーマンスSunday Serviceの新しい衣装としてInstagramにアップされてもいた。最初から最後まで立ちっぱなしの不可思議なこのインタビューでYeは、黒いKKKの姿でヴァージル・アブローなどの盟友たちをこき下ろし、更に孤立を深めた。

■白人の心理劇(ホワイト・サイコドラマ)との闘い

 熱狂的なファンではなくともYeの音楽を聴き続けている筆者のような者にとって、彼は、才能に溢れていて純粋で、気持ちは理解できるが、困ったことをしでかす子供っぽい友人のような感じではないかと思う。理解できる「気持ち」とは何かと言えば、それは「自由でいたい」というストレートな思いだ。母親に溺愛された我儘な一人っ子を地で行くYeは、エゴイズム丸出しで、グラミー賞をもらおうが、億万長者になろうが「自由でいたい」と訴えてきた。彼の自由を阻むものの筆頭は人種差別である。歴史を通じ社会にがっちりと組み込まれたこの差別構造を糾弾することには正当性がある。だから彼の振る舞いがどんなに馬鹿げていて、しばしば暴力的であっても、少なくとも2010年代前半まではYeを支持する人たちは大勢いた。

 2009年のMTV ビデオ・ミュージック・アワードで、ビヨンセが受賞しなかったことに腹を立て、受賞者のテイラー・スウィフトの受賞スピーチに乱入した悪名高い事件に対しても、「Jack Ass(大バカ)」と罵ったオバマ元大統領もいれば、白人至上主義の音楽業界を内側から撹乱しているという肯定的な評価もあった(※2)。この出来事を2016年の「Famous」で「I made that bitch famous (俺がこのビッチを有名にしてやったからだ)」と歌ったYeは邪悪そのものだったが、この苦い経験がマジョリティ女性の代表格であるテイラーを目覚めさせ、マイノリティ擁護に向かわせるという肯定的結果をもたらしたことも否定できない。

 同曲のMVもまた非常に手の込んだ作品だった。テイラーとYe自身だけでなく、当時の妻のキム・カーダシアン、元彼女のアンバー・ローズ、曲にも参加しているリアーナ、そしてかつてYeが名指しで批判したことのあるジョージ・ブッシュ元大統領、そして当時大統領戦に出馬していたドナルド・トランプの蝋人形が裸で並んでベッドに横たわる生々しい映像は、Yeが得意とするどこかふざけているような同曲の曲調と相まって、「有名であること」に執着するセレブたちのグロテスクさを示す強烈なアート作品になっていた。同時に異人種間結婚が1967年まで違法だった米国の状況に対し、白人と黒人の乱交を思わせるこの映像は、明らかにタブーに触れるものでもあった。本作は、受賞こそならなかったが、欧米の複数のビデオ・ミュージック・アワードにノミネートされた。つまりこの時期までの彼の衝撃的な言動は、常識を揺さぶる対抗的なアートとして確かに機能していたのである。

 2016年は「Famous」が収録された『Life of Pablo』がリリースされ、伝説的なリスニング・パーティーやツアーが行われた年だったが、その年の11月に精神的問題を理由に入院を余儀なくされて以降、Yeの言動に変化が生じる。精神疾患を発症したYeの言動はその攻撃性を強め、矛先も白人至上主義にダイレクトに向けられなくなった。2016年の12月には、白人至上主義的なアジェンダを掲げて共和党から大統領になったドナルド・トランプと面会し、2018年にはホワイトハウスを訪問してMAGAハットを被り、民主党支持の多いアフリカ系アメリカ人たちを深く失望させた。また同年の「奴隷制は自由選択のようだ」という発言は、アフリカ系アメリカ人を筆頭にリベラルな米国人から激しく非難された。

 あくまでもYeの意図に即すならば、これらの振る舞いは、アフリカ系アメリカ人に向けたエンパワメントだった。つまり、彼自身の言葉を借りて言うならば「個人のパワーを自覚してほしい」と伝えたかったのであり、アフリカ系アメリカ人だからと言って民主党に投票することは、「単に言われたことをやっている」に過ぎない、彼の言い方で言えば「精神的に奴隷状態」だということに気づいて欲しかったのだと彼は言う。それは、マジョリティに認められるために道徳的に正しく振る舞おうとする「尊敬の政治」を、かなぐり捨てろという呼びかけだったのかもしれない。「黒人なのに」MAGAハットを被る自由、「黒人なのに」トランプを好きだという自由、All Lives Matterと書かれたTシャツを着て「黒人なのに」白人至上主義を表明するという自由をYeは見せつけた。その逆張り的な振る舞いは、あまりにもダイレクトに政治的で、アフリカ系アメリカ人を傷つけるものだったため、もはやアートとしては受け止められず、(当然と言えば当然だが)批判を増幅するばかりだった。コロナ禍の2020年には「バースデー党(Birthday Party)」という党名で大統領選に出馬して落選し、この頃から元妻のキムに距離を置かれるようになる。その後も批判されればされるほど、彼は邪悪に振る舞うようになり、2022年以降には冒頭に述べたような反ユダヤ主義とナチス賛美という陰謀論に行き着いてしまった。

 Yeの振る舞いは乱暴すぎるが、人々が徐々に気付きつつある事実を顕在化させたと言えなくもない。Yeがトランプに会った2016年からの8年間とは、エリートが中心になった米国の左派がその偽善を露わにし、労働者や一部のマイノリティから見限られていった時期だったからだ。2023年に発表されたアフリカ系英国人の政治哲学者、リアム・コフィ・ブライトが示した世界観は、おそらくYeにも共有されている。ブライトは「白人の心理ドラマ」(※3)という論文で、米国政治は「人種差別などもう存在しない」と考える白人右派と、人種差別に対して罪悪感を感じている白人左派同士の闘争であり、アフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種は彼らの心理劇の道具に過ぎないことを示した。有色人種が民主党を支持することは、左派の白人の罪悪感の解消のために寄与することで、反対に人種差別などないように振る舞うことは、右派の白人の世界観の維持に貢献することを意味する。両陣営の白人(マジョリティ)の主要関心事は自己承認と互いの陣営をやっつけることで、有色人種(マイノリティ)はその道具に過ぎない(※4)。Yeはケンドリック・ラマーとドレイクのビーフ〔ヒップホップ文化の喧嘩〕に際し、二頭のゴリラが檻の中で戦っているのを人間が眺めている動画をXにアップし、マイノリティ同士の戦いは所詮マジョリティの道具やエンタメにしかなっていないと訴えていた。

 しかしながら、人種差別を糾弾することを止めてMAGAハットを被る黒人になったところで、左派の白人への従属から右派の白人への従属に移行したことにしかならず、そこに自由はない。最終的にトランプ支持を止めたYe自身もおそらくわかっていたことだろう。根本的に変わらない構造的差別のなかで、多くの人間は妥協するか差別について考えないようにして生きるわけだが、Yeは怒り続け、自由になろうともがき続け、その果てに一旦本当に壊れてしまったのではないかと思う。Yeがどんなに暴言を吐こうと、彼とのコラボ曲の演奏などを通じ支持を表明していたアーティストには、トラヴィスだけでなくフランク・オーシャン、リアーナ、The Weekndなどがいて、ケンドリック・ラマーに至っては「Heart Part 5」のバース2でYeの苦しみについて触れていた。彼らはYeの怒りに根本的には共感しているのだろう。Yeの破滅は、結局のところ、白人右派のみならず白人左派も根本的には変える気がない、しぶとい白人至上主義を暴露している。

(※2)Nicholas D. Krebs, “Confidently (Non)cognizant of Neoliberalism: Kanye West and the Interruption of Taylor Swift”, Julius Bailey ed.,The Cultural Impact of Kanye West, Palgrave Macmillan, 2014,pp. 195-208.

(※3)Yeは白人女性と結婚することで、自分が内面化した白人至上主義との葛藤も抱えている。彼の葛藤はキム・カーダシアンとの離婚後の彼女と子供を持ったこと自体を後悔する暴言に表れているが、キムや子供の気持ちを思うと痛ましいものがある。

(※4)この図式は様々なマジョリティとマイノリティの関係(フェミニスト男性VS家父長制的男性と女性、シス男女の左派VS右派とLGBTQ)に該当するように思われる。

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